ディクタス("、1967年4月11日 - 1989年9月20日)はフランス生産の競走馬、種牡馬である。競走馬としては1971年にG1競走のジャック・ル・マロワ賞に優勝、種牡馬としては日本に輸入されてすぐに1984年にファーストシーズンサイヤーチャンピオンになると、3歳チャンピオンのサッカーボーイをはじめ多くの活躍馬を出した。1969年より主にフランスで競走生活を送り、引退後の1972年よりフランスで種牡馬となり、1980年に日本へ輸出された。以後フランスに残した産駒からザラテア、パリカラキ、日本ではスクラムダイナ、サッカーボーイといったGI優勝馬を輩出した。1968年に6万4000フラン(約466万円)でホセ・M・ソリアーノに購買され、R・ド・モニイパジョル厩舎に入厩し、ラテン語で「お告げ」を意味する「Dictus」と名付けられた。2歳でデビューしたディクタスはダリア賞で3着になり、フォンテーヌブロー競馬場のブーケデュロワ賞(Prix du Bouquet du Roi、1700メートル)に勝って2戦1勝でシーズンを終えた。3歳の時は、春にジュドランジュ賞(Prix Jus d'Orange、2000メートル)、ラク賞(Prix du Lac、2400メートル)に勝ち、3100メートルのパリ大賞典に挑み大敗した。このあと、中距離に戻ってG2コートノルマン賞2着、続くラロシェト賞(Prix La Rochette、1850メートル)に勝った。夏を休養して秋初戦のG2アンリデラマール賞で4着のあと、イギリスに遠征してニューマーケット競馬場のチャンピオンステークスに挑戦した。この競走には、この年のイギリスの三冠馬ニジンスキーが出走した。ニジンスキーは三冠達成のあとフランスへわたって凱旋門賞に出て、ササフラに不覚を取った後だったが、適距離の2000メートルに戻って勝利は間違いないと考えられていた。イギリス人の中にはニジンスキーの単勝に200万ポンドも賭けた不動産屋もいた。ところが、ニジンスキーの引退レースを一目見ようと集まった2万人の観衆は出走前のニジンスキーを追いかけまわしてスターティングゲートのところまで取り囲み、ニジンスキーはすっかり興奮して消耗してしまった。ニジンスキーは動きが悪く、早めに抜けだしたを捕まえられずに3馬身差で敗れた。3着にはホットフット(Hotfoot)が入り、ディクタスは4着だった。古馬になったディクタスは、春初戦の(G3、1600メートル)でファラウェイサン(Faraway Sun)をクビ差おさえて1分36秒5のレコードタイムで勝ち、グループレース初勝利を挙げた。続くガネー賞(G1、2100メートル)ではカロの前に9着に敗れ、次走モーリスドラクソン賞でも4着に終わった。夏はメシドール賞(G3、1600メートル)で首差の2着に敗れたのち、ドーヴィル競馬場のジャックルマロワ賞(G1、1600メートル)に出た。ディクタスはイギリスの3歳馬スパークラー(Sparkler)をゴール前で半馬身捉え、G1初優勝を遂げた。1マイルのG1競走に勝ったとはいえ、ディクタスの真価が問われるのは次走、イギリスのアスコット競馬場のG2戦、クイーンエリザベス2世ステークスになった。この年のヨーロッパのマイル路線には1頭の傑出馬がいた。春に2000ギニーで本命のミルリーフに3馬身差をつけて切って捨てたブリガディアジェラードである。ブリガディアジェラードはデビュー以来無傷の8連勝でこの競走に出てきた。ディクタスがこれまで戦ってきた相手を尺度にすると、ディクタスがエヴリ賞でクビ差を争ったファラウェイサンは、その後イギリスへ渡ってサセックスステークスに挑み、ブリガディアジェラードの2着になっていた。とはいえ、着差は大差だった。しかし、ジャックルマロワ賞で半馬身差だったスパークラーは、セントジェームズパレスステークスでブリガディアジェラードとアタマ差の勝負をしていた。これはブリガディアジェラードに最も僅差まで迫ったもので、これ以外の7戦で、ブリガディアジェラードは常に2着に最低でも2馬身以上、合計で27馬身+大差をつけて勝ってきている。9月末のアスコット競馬場のクイーンエリザベス2世ステークス(G2、1マイル=約1609メートル)には、たったの3頭しか出走しなかった。ほかはみなブリガディアジェラードを恐れて回避した。結局ディクタスはブリガディアジェラードに8馬身の差をつけられて2着になった。これがディクタスの最後の競走となった。この直後、ファラウェイサンはブリガディアジェラードとの大戦を避けて10月にムーランドロンシャン賞・フォレ賞のG1競走を制した。スパークラーは古馬になってG1のモルニ賞を勝っている。この年、G1競走に勝ったとはいえ、フランスでのディクタスの評価はそれほど高くはなく、フリーハンデでフランス馬のなかで14位にランクされた。全成績は17戦6勝、獲得賞金は596,678フランと2,623ポンドだった。1972年よりフランスのマレ牧場で種牡馬となる。1978年に種牡馬ランキングで5位となったのを皮切りに毎年10位以内の成績を保ち、1980年には日本の社台グループに購入された。翌1981年には自己最高のランキング2位(フランス)を記録し、さらに1983年にはザラテアがオークツリー招待ステークス、パリカラキがと、産駒がそれぞれアメリカのG1競走に優勝した。日本でも供用初年度産駒から朝日杯3歳ステークス勝ち馬のスクラムダイナを出し、その後もGI競走2勝のサッカーボーイなど数々の重賞勝利馬を輩出した。1989年に23歳で死亡。サッカーボーイが後継種牡馬として3頭のGI競走優勝馬を輩出しているほか、ザラテアの産駒にフレイズ(ブリーダーズカップ・ターフなどG1競走3勝)、サッカーボーイの全妹・ゴールデンサッシュの産駒にステイゴールド(香港ヴァーズ優勝、オルフェーヴルなどの父)がいる。血統は本来は長距離向きとされるものだったが、気性の激しさが前面に出て長距離向きと短・中距離向きの馬が極端に分かれる傾向があり、ヨーロッパでは長距離馬も送ったものの、日本では自身と同様に激しい気性を備えた短・中距離向きの産駒がほとんどであった。しかし、瞬発力に優れマイル〜中距離走を得意としていた代表産駒のサッカーボーイは種牡馬として「先祖返り」現象を起こし、数々の長距離馬やパワー型のダート馬を輩出した。ライターの村本浩平は、ディクタスから出たこうした血統的特徴を「"意外性"の血」と称している。また、社台グループ所有馬で、1980年代の最有力種牡馬であったノーザンテーストを父に持つ繁殖牝馬との相性が良く、「ディクタス×ノーザンテーストの肌」は、社台の総帥・吉田善哉が誇る配合だった。吉田と親交の深かった作家の吉川良によれば、吉田はディクタスの死に際して「横綱ではなかったが名大関だったね」と評し、「ひとつの時代が終わったね」と吉田としては珍しく感傷的な態度を見せたという。また吉川自身はディクタスについて「社台ファームを支える柱のひとつになっていた」、「社台ファームを日本一の牧場にしたのはノーザンテーストのおかげと言って間違いないが、脇役としてのディクタスの存在を忘れたら正確でない」と評している。なお、社台グループの白老ファーム場長・服巻滋之によると、ディクタス産駒は機嫌は損ねると「耳を後ろに寝かせ、白目を剥いて睨み付ける」という独特の表情をするものが多くおり、放牧地でそうした表情を見せる馬を見つけ「父系か母系にディクタスの血が入っていないか」と確認すると、その通りであることが多かったという。
出典:wikipedia
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