下園 辰哉(しもぞの たつや、1984年11月22日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手(外野手)。愛称は「ゾノ」。宮崎日本大学高等学校では1年生から外野手の定位置を獲得し、2年生では九州地区の春季大会で優勝を果たす。九州国際大学に進学後は1年生からレギュラーとなり、九州六大学リーグでベストナイン4回、打点王2回、首位打者1回、優秀選手賞1回を獲得したほか、リーグ通算114安打で当時の連盟新記録も樹立した。2006年の大学生・社会人ドラフトで、横浜ベイスターズから4位指名を受け、入団。は二軍で63試合に出場、打率.269、4本塁打、21打点の成績を残し、6月30日に一軍デビューも果たした。は主に二軍で外野手のレギュラーとして起用され79試合に出場、打率.270、11本塁打、44打点の成績を残した。は開幕を二軍で迎えたが、打率・打点・四球数がいずれもイースタン・リーグ1位と好調で、田代富雄二軍監督から「根性がある。選球眼もいいしね」と評価された。その田代が一軍監督代行に就任した翌日の5月19日に一軍昇格すると、主に1番打者として多くの出場機会を得た。は初の開幕一軍入りを果たすと、尾花高夫新監督から「左投手を上手に打つ」と評価を受け、4月下旬からスタメンに定着。打順や守備位置は流動的ながら自身初の規定打席に到達し、打率.286(チーム3位)・出塁率.365(チーム2位)などで自己最高の成績を残した。は3月11日のオープン戦の守備で打球を追った際フェンスに激突して右足脛骨を骨折する重傷を負い、シーズン序盤を欠場した。リハビリを経て6月29日に一軍昇格すると、同日の対中日ドラゴンズ戦において代打本塁打を放った。復帰後は上位打順でスタメン起用され、前半の離脱が影響して規定打席には到達しなかったものの、チームトップとなる45四球、出塁率.365を記録した。は中畑清新監督の下でシーズンを通して一軍に在籍したものの、先発起用は少なく、代打での出場試合が過半数を占めた。同年オフ、同年限りで引退した新沼慎二の後任として球団の選手会長に就任した。は春季キャンプ中に左足を故障しオープン戦を全休するなど出遅れ、公式戦でもナイジャー・モーガンや多村仁志の加入などで26試合の出場に留まった。シーズン前半戦は梶谷隆幸と筒香嘉智の外野起用などにより出場機会を減らし、夏場は二軍暮らしが続いた。筒香が故障離脱した8月14日に一軍復帰して以降は代打やスタメンで多く起用され、チーム(20打席以上)2位の出塁率など一定の成績を残した。は梶谷の故障離脱に伴い5月14日に一軍初昇格。6月に打撃が振るわず7月2日に二軍降格となるが、8月18日に再昇格。同月24日には4年ぶりに1番打者で起用され3打数3安打1四球と活躍した。同年オフに球団選手会長を退任し、山口俊へ引き継いだ。、ラミレス新監督の下でも代打中心での起用となる。4月1日の阪神タイガース戦では9回裏代打で出場し、プロ10年目で初のサヨナラヒットを放った。レギュラーシーズンを通してもチームトップの得点圏打率.400(30打数12安打)を記録し勝負強さをみせたが、クライマックスシリーズでは無安打に終わった。打撃は、ファンから『ゾノアイ』とも称される選球眼の良さが特徴で、出塁率が打率を1割前後上回るシーズンもある。また左打者でありながら、一般的に相性が悪いとされる左投手をあまり苦にしない。守備は中堅手での出場経験もあるが、主に外野の両翼(右翼手、左翼手)で起用される。
出典:wikipedia
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