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李宗仁

李 宗仁(り そうじん)は中華民国の軍人・政治家。中華民国軍陸軍一級上将。国民政府(国民革命軍)の軍人で、白崇禧・黄紹竑とともに新広西派(新桂系)の主要な指導者の1人と目される。また、一般には、その3人の中でも李が最高指導者とみなされる。国共内戦期には中華民国副総統に当選し、内戦最終盤に短期間ながら代理総統も務めた。字は徳鄰。広西省(当時)の郷村の塾教師の家庭に生まれる。1908年(光緒34年)、広西陸軍小学堂に入学する。1910年(宣統2年)、中国同盟会に加入した。また、このときに黄紹竑と同学になっている。1913年(民国2年)秋に卒業して、南寧の将校講習所で下級軍官に任ぜられた。以後、陸栄廷を指導者とする旧広西派(旧桂系)で軍歴を重ねていく。1920年(民国9年)に陸栄廷が粤桂戦争で粤軍(広東軍)に敗北してからは、広西省内は混乱して様々な軍人たちが自立するようになる。この混戦の中で1922年(民国11年)、李宗仁は広西自治軍第2路総司令を自称し、黄紹竑らの協力も得た。翌年、広州軍政府の孫文(孫中山)に与して、中国国民党に加入し、「広西定桂軍」を組織した。1924年(民国13年)、旧広西派の陸栄廷、沈鴻英を相手に、李宗仁は三つ巴の戦いを開始する。まず、3勢力中最強の陸に対抗するため、李は沈との間で事実上の連合を結成する。4月、沈が桂林に進軍してきた陸を包囲・攻撃した。6月、李らは、手薄になった陸の本拠地・南寧を占領した。このとき、李宗仁は定桂聯軍を組織し、その総指揮となる。9月、沈が陸を広西から駆逐し、翌月にこれを下野に追い込んだ。11月、李宗仁は孫文から広西全省綏靖督弁公署督弁に任命され、黄紹竑は会弁、白崇禧は参謀長に任じられた。翌年初頭から、李と沈鴻英との間で戦闘が開始される。4月、李らは桂林を占領し、沈軍をほぼ再起不能に追い込んだ。さらに、広西侵攻を企てた雲南省の唐継尭軍を撃退するなどして、同年中に、李らはついに広西省を統一した。これより、新広西派による広西統治が開始される。広西省を統一した李宗仁は、その後、広東方面へも国民党支援のために出兵し、広東の平定にも貢献した。1926年(民国15年)3月、李の軍は国民革命軍第7軍に改組され、李宗仁が軍長、黄紹竑が党代表、白崇禧が参謀長となった。7月、李は北伐に自ら第7軍を率いて参戦し、湖南省・湖北省・江西省方面へ進撃して北京政府側の呉佩孚・孫伝芳などを撃破した。翌年3月、安徽省に進駐している。4月12日、上海クーデターが発生すると、李は蒋介石を支持して中国共産党粛清に従事した。武漢と上海の国民政府の分裂(寧漢分裂)でも上海国民政府を支持している。1928年(民国17年)、武漢政治分会主席を兼ね、さらに第4集団軍総司令に昇進した。北伐勝利後の10月、国民政府委員兼軍事参議院院長に任じられている。蒋介石が李済深を捕らえるなどの挙に出たこと、また、新広西派の軍事力を削減しようと図ったことに不満を覚え、1929年(民国18年)3月、李宗仁は蒋に反旗を翻して挙兵した(蒋桂戦争)。しかし同年6月、広西省で部下の兪作柏らが兵変を起こしたため敗北を喫し、香港へ逃亡している。それでも同年中に広西省内が混乱したため、兵変を起こした軍人たちに李は再度呼び戻され、新広西派の指導者としては復帰した。これにより、李は「護党救国軍」を組織し、引き続き反蒋運動を続ける。翌年、中原大戦に参戦したが、蒋に再び敗北を喫した。1931年(民国20年)5月、反蒋介石派の軍人・政治家が広州非常会議を開催すると、李宗仁の新広西派もこれに参加し、西南派を結成した。結局、満州事変の勃発もあって西南派は蒋との大同団結に回帰するが、新広西派の国民政府内における勢力は、これにより大きく強化されることとなる。李宗仁・白崇禧は、広西統治において「三自三寓」政策を実践し、軍事・内政・財政など様々な方面で改革に大きな成果をあげている。1937年(民国26年)の日中戦争(抗日戦争)勃発とともに、李宗仁は第5戦区司令長官に任ぜられ、津浦線の防御を担当した。翌年1月には、安徽省政府主席も兼任し、これにより安徽省も新広西派の影響下に置かれることになる。李宗仁は第5戦区司令長官を6年間つとめ、日本軍との戦いでの指揮は優れたものであった。指揮下にあった張自忠、孫連仲、孫震、盧漢らが徐州方面で好戦績を収め、台児荘戦役などで戦果をあげたことが、その例である。1943年(民国32年)9月、軍事委員会委員長漢中行営主任に転じた。日中戦争勝利後、李宗仁は軍事委員会委員長北平行営主任(1946年(民国35年)9月、国民政府主席北平行轅主任に改組)に任じられ、共産党との戦いを開始する。1948年(民国37年)、中華民国副総統選挙に出馬し、蒋介石が推す孫科を破って当選した。翌1949年1月、蒋が国共内戦不利の責任をとって下野すると、李が代理として中華民国総統に就任し、共産党との和平交渉を開始する。4月、張治中を代表とする共産党との和平交渉団を派遣し、交渉団が最終案を持ち帰ってきた。しかし、最終的には国民党内の反発もあって李は調印できなかった。その後も蒋と李との政治的齟齬は大きく、内戦も毛沢東の中華人民共和国成立の結末となる。11月、李は香港へ逃亡し、さらに12月にはアメリカへ亡命してしまった。国民党とともに台湾へ渡った蒋は、1950年(民国39年)3月1日総統への復任を宣言した。その後、李宗仁は台湾に向かうことなく、アメリカで中台情勢を見守っていた。しかし妻の郭德潔が末期がん(乳がん)と診断され、1965年7月、帰国を決断して妻と北京入りし、毛沢東ら中華人民共和国の首脳から歓迎を受けている。翌1966年3月に妻は北京で死去した。1969年1月30日、北京で死去。享年80(満78歳)。

出典:wikipedia

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