アレシャンドレ・ロドリゲス・ダ・シウヴァ(Alexandre Rodrigues da Silva, 1989年9月2日 - )は、ブラジル・パラナ州パト・ブランコ出身のサッカー選手。ポジションはFW。プリメーラ・ディビシオン・ビジャレアルCFに所属。登録名はアレシャンドレ・パト(Alexandre Pato)。「パト」は、出身地に由来する。4歳の時にはじめたフットサルで基本技術を身につけ、12歳でSCインテルナシオナルの下部組織に入団した。16歳のときにU-20の州選手権で得点王を獲得し、「クラブ史上最高の素材」と評判になった。当時は他クラブの引き抜きを恐れ、あえて下部組織で教育を続けられた。2006年11月末のパルメイラス戦でデビューすると、開始わずか1分でプロ入り初ゴールを決め、さらに3得点に絡むというドラマチックなデビューを飾った。17歳でFIFAクラブワールドカップ2006に出場、得点を上げるなどの実績を残している。アル・アハリ戦では肩でリフティングをするドリブルを披露するなどし、メディアの注目を集めた。2007年7月、カナダで行われたFIFA U-20ワールドカップでの活躍により、ACミラン、インテル・ミラノ、レアル・マドリード、チェルシーFCなどが獲得オファーを出した。2007年8月、セリエAのACミランへ移籍。移籍金は推定2200万ユーロ(約36億円)。しかし、FIGCのEU圏外選手登録年齢制限が解ける18歳にならないと試合出場ができないため、公式戦に出場するのは翌2008年初頭からとなり、1月4日にレガ・カルチョから登録を完了したことが発表された。背番号は7番。2008年1月13日、セリエA第18節の対SSCナポリ戦にてセリエAデビューを果たし、この試合でセリエA初ゴール記録。シーズン通算で20試合に出場し、チーム3位となる9得点を挙げた。2008-09シーズンはレギュラーに定着し36試合に出場。チーム2位でセリエA全体でも6位となる15得点を挙げ、セリエA年間最優秀若手選手賞を受賞。なお、イタリア人選手以外での受賞は、前年度のマレク・ハムシークに続き2人目。2009-10シーズンはレオナルド監督の下、ロナウジーニョ、マルコ・ボリエッロとともに3トップを形成し好パフォーマンスを披露。2010年1月にはブラジル人選手として初めて、オスカル・デル・カルチョの年間最優秀若手選手賞を受賞した。一方で、2010年1月に肉離れを起こして以降、負傷を繰り返すようになり、2年間で8度の筋肉の怪我を負っている。2010年12月にはアメリカのデューク大学で精密検査を受けた。2011-12シーズンはさらに負傷離脱が続き、リーグ戦11試合出場でわずか1得点に終わった。2012年1月には、パリ・サンジェルマン移籍の噂が出るも残留。2012-13シーズンから7番に代わってフィリッポ・インザーギの引退で欠番となった背番号「9」を背負うも度重なる負傷癖は変わらず。冬の移籍市場で移籍を志願した。2013年1月、母国のコリンチャンスに完全移籍した。契約は4年間で移籍金は1500万ユーロ(約17億円)。2014年2月、サンパウロFCにレンタル移籍した。2016年1月30日、チェルシーFCに半年間のレンタル移籍が決定。背番号はかつてディディエ・ドログバやオスカルの着用した11番。2016年7月27日、スペインのビジャレアルCFと4年の完全移籍で合意したことを発表した。2008年3月26日、ロンドンで行われた国際親善試合、対スウェーデン戦でA代表デビュー。決勝点となるゴールを決め、華々しいデビューを飾った。しかし、度重なる怪我の影響もあり2010 FIFAワールドカップのメンバーからは外れた。ワールドカップ終了後最初の試合となったアメリカとの親善試合では約1年ぶりに招集され、デビュー戦以来となるゴールも記録した。2009年7月に結婚し、その後はゴールを決めたあとに妻に向け両手でハートマークを作るパフォーマンスを度々していたが、2010年に離婚した。2011年からはミランのシルヴィオ・ベルルスコーニ名誉会長の娘であるバルバラ・ベルルスコーニと交際していた。 2 || 1 || 0 || 0 || 0 || 0 || 2 || 1 !colspan="3"|UEFA!!colspan="2"|CL!通算!!colspan="2"|UEFA
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