『檸檬』(れもん)は、梶井基次郎の短編小説。梶井の代表的作品である。得体の知れない憂鬱な心情や、ふと抱いたいたずらな感情を、色彩豊かな事物や心象と共に詩的に描いた作品。三高時代の梶井が京都に下宿していた時の鬱屈した心理を背景に、一個のレモンと出会ったときの感動や、それを洋書店の書棚の前に置き、鮮やかなレモンの爆弾を仕掛けたつもりで逃走するという空想が描かれている。1925年(大正14年)1月1日発行の、中谷孝雄、外村繁らとの同人誌『青空』1月創刊号の巻頭に掲載された。単行本は、梶井の友人である三好達治らの奔走により、梶井の亡くなる1年ほど前の1931年(昭和6年)5月15日に武蔵野書院より刊行され(印刷日は5月10日)、これが梶井の生涯で唯一の出版本となった。同書には他に17編の短編が収録されている。翻訳版はアメリカ(英題:)、スペイン(西題:La limono)、中国(中題:檸檬)、フランス(仏題:Le Citron)、ドイツ(独語:Die Zitrone)などで行われている。「えたいの知れない不吉な塊」が「私」の心を始終圧えつけていた。それは肺尖カタルや神経衰弱や借金のせいばかりではなく、いけないのはその不吉な塊だと「私」は考える。好きな音楽や詩にも癒されず、よく通っていた文具書店の丸善も、借金取りに追われる「私」には重苦しい場所に変化してした。友人の下宿を転々とする焦燥の日々のある朝、「私」は京都の街から街、裏通りを当てもなくさまよい歩いた。ふと、前から気に入っていた寺町通の果物屋の前で「私」は足を止め、美しく積まれた果物や野菜を眺めた。珍しく「私」の好きなレモンが並べてあった。「私」はレモンを一つ買った。始終「私」の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛ゆるみ、「私」は街の上で非常に幸福であった。「私」は久しぶりに丸善に立ち寄ってみた。しかし憂鬱がまた立ちこめて来て、画本の棚から本を出すのにも力が要った。次から次へと画集を見ても憂鬱な気持は晴れず、積み上げた画集をぼんやり眺めた。「私」はレモンを思い出し、そこに置いてみた。「私」にまた先ほどの軽やかな昂奮が戻ってきた。見わたすと、そのレモンイエローはガチャガチャした本の色の階調をひっそりと紡錘形の中へ吸収してしまい、カーンと冴えかえっていた。「私」はそれをそのままにして、なに喰くわぬ顔をして外へ出ていくアイデアを思いついた。レモンを爆弾に見立てた「私」は、すたすたと店から出て、木っ端微塵に大爆発する丸善を愉快に想像しながら、京極(新京極通)を下っていった。『檸檬』の原型となっているのは、1924年(大正13年)に書かれた習作『瀬山の話』の中の断章「瀬山ナレーション」にある挿話「檸檬」である。この断章の挿話を数回の改稿を経て、独立した短編『檸檬』が出来上がった。習作『瀬山の話』は、「瀬山」という名の主人公の落ち込んだ精神状態が綴られているが、当時梶井は「瀬山極」(ポール・セザンヌをもじったもの)という筆名を使い、大学の劇研究会の雑誌に投稿していた。『瀬山の話』は京都に住んでいた三高時代の自身の内面を総決算する作品として試みられたものだが、結末がうまくいかず未完成となり、梶井はその中の一つの挿話「檸檬」を独立させて『檸檬』に仕立て直した。梶井は友人の近藤直人に宛てた手紙の中で『檸檬』を、〈あまり魂が入つてゐないもの〉と書き、単行本刊行の翌年の淀野隆三宛ての手紙にも、〈檸檬は僕は当時あまり出すのが乗気でなかつたので君や三好の、殆ど独断的な取はからひなしには 決してあれは世に出てゐるものではなかつたらう、さう思つて僕は幾度も感謝した〉と書き送っていて、その文面からは当時の梶井自身は、あまり表立って『檸檬』を積極的に評価していなかったことがうかがわれている。これについて、梶井の友人であった淀野隆三の見立てでは、これは梶井が逆説的に言ったことで、実は自信を持って発表したと解釈している。なお梶井は、『瀬山の話』に遡る2年前の1922年(大正11年)、一個の檸檬に心を慰められるという内容の文語詩草稿「秘やかな楽しみ」(檸檬の歌)も日記に書きつけている。梶井自身結核に侵されていたこともあり(それにより早世)、梶井の作品には『檸檬』のほかにも肺病の主人公が多い。『檸檬』は、梶井の代表作というだけでなく、日本文学の傑作、名品として多くの作家たちに高く評価されているが、同人雑誌初出の当初は注目されておらず、6年後に単行本化され、井上良雄や、その翌年小林秀雄が『檸檬』を本格的に論じて高く評価してから、梶井が文壇に認められるきっかけとなった。小林秀雄は、『檸檬』は「(梶井の)観念的焦燥の追求する単純性や自然性の象徴ではない」とし、それは、むしろ梶井自身の「資質」だと指摘しながら、梶井という作家は「観念上空疎な過剰や、苛立たしい飛躍を全く知らぬ。或ひは必要とせぬ作家」であり、その「焦燥」は、「知的といふよりも鋭敏な感受性が強ひられた一種の胸苦しさ」だと表現して以下のように評している。『檸檬』は主人公のおかれている境遇や性格描写などが省かれ、ただ感覚世界だけを描き出しているが、鈴木貞美はこれについて、梶井が習作『瀬山の話』で「自身の内面の全体を定着しようとする試みに挫折」し、『檸檬』において「束の間の精神の愉悦をリアルに再構成する方法を選びとったとき、梶井基次郎の世界の礎石が築かれた」と考察しながら、鬱屈した心の状態で一個のレモンに出会ったときの梶井の「感覚のよろこび」について以下のように解説している。三島由紀夫は、中島敦、牧野信一と共に梶井基次郎を、「夜空に尾を引いて没した星のやうに、純粋な、コンパクトな、硬い、個性的独創的な、それ自体十分一ヶの小宇宙を成し得る作品群を残した」作家と位置づけ、「梶井基次郎くらゐの詩的結晶を成就すれば、立派に現代小説の活路になりうる」とし、梶井は「感覚的なものと知的なものとを綜合する稀れな詩人的文体を創始した」と考察していている。そして三島は『檸檬』を日本の短編の最高のものとし、「一個のレモンが読者の眼の前に放り出されたような、鮮やかな感覚的印象をもって終わる作品」と解説し、『檸檬』に代表される梶井文学について、以下のように評している。石井和夫は、『檸檬』の原型の『瀬山の話』の中に、「ポオの耳へ十三時を打つて聞かせたのもおそらくはこの輩の悪戯ではなかつたろうか」という一文があることから、『瀬山の話』の挿話「檸檬」と、『檸檬』が、エドガー・アラン・ポーの『鐘楼の悪魔』(悪魔が正午に13時の鐘を鳴らし、美しい町を破壊する話)のモチーフから発想されたのではないかと考察し、そのモチーフが、美しい金閣寺を放火してしまう三島由紀夫の『金閣寺』にも通底していることを指摘しながら、三島が梶井を「日本には稀少、美が常に否定形によってアナーキーに描かれねばならぬことを先験的に知る」先駆者と見ていたゆえに、梶井を高く評価していたのだと解説している。作中の「私」がレモン(カリフォルニア産)を買った果物屋は、京都市中京区寺町二条角の「八百卯」(明治時代創業)だが、2009年(平成21年)1月25日に閉店された。かつては「檸檬の店」というタイトルのパンフレットが店先のガラス窓に飾れ、4階建てビルに建て替え後にできた2階のフルーツパーラーには『檸檬』の一節が飾られていた。また、登場する書店・丸善は当時、三条麩屋町西入ルにあった初代店舗で、洋書の他にヨーロッパから輸入された高級石鹸や香水、バーバリーのコートが売られていた。丸善・京都店には、八百卯で買ったレモンを置き去る人があとを絶たなかったといわれる。現在は、河原町通蛸薬師上ルにあった2代目の店舗も2005年(平成17年)10月に閉店された。それから約10年後の2015年(平成27年)8月20日に京都BALの地下1階と2階に再出店した。大阪市西区靭本町の靱公園内には、1981年(昭和56年)に建立された文学碑があり、『檸檬』の一節が刻まれている。
出典:wikipedia
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