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青嵐会

青嵐会(せいらんかい)は、1973年、自由民主党の派閥横断的に結成された保守派の衆参両若手議員31名からなる政策集団。石原派と呼ばれた。青嵐は寒冷前線の意味で、会名は「渾沌停滞した政界に爽やかな風を送り込もう」という意味を込めて石原慎太郎が命名した。設立趣意書には「いたずらに議論に堕することなく、一命を賭して、右、実践する」とあり、結成時に石原の提案で会員名簿に血判状を捺した事で知られる。中華民国支持の立場をとり、田中角栄首相による日中国交正常化に伴う中華民国との断交に絶対反対の姿勢を貫き、自民党外交部会などで強硬に主張した。1973年の「日中国交正常化1周年記念」に対抗して「中華民国断絶1周年訪問団」を結成し、台北市を訪問した。自民党議員による北朝鮮訪問を実力で阻止したこともある。反共を標榜していたが、当時中ソ対立で中華人民共和国と対立していたソビエト社会主義共和国連邦に対しては柔軟で、在京ソ連大使館職員を招いて勉強会を開くなどしている。冷戦下にあって西側・自由主義陣営諸国との連帯強化を唱えていたため、中華民国の蒋介石政権だけでなく、韓国の朴正煕政権とも友好関係を取った。とくに中川一郎は、初当選直後の1963年12月に朴正煕大統領就任慶祝団の一員として訪韓、1965年の日韓国交樹立の交渉にもタッチしており、朴政権が頼りとする議員の一人とされる。1974年1月に日本武道館で行った「青嵐会は主張する国民集会」では、大韓民国在日居留民団(民団)にも動員令がかかり、「朝鮮服は着ないで出席せよ」との指令が出ていたという。1974年には浜田幸一が中国国民党擁護の立場から、在日台湾独立派の金美齢と論戦を行ったが、この番組(毎日放送制作:東京12チャンネル放映予定)は中国国民党の圧力で放映中止となった。結成当初より、集会では会場となった日本武道館を満員にするほどの人気を得ていたが、マスコミからは「自民党の右翼集団」「極右集団」などと批判された。また、思想面で近いことから「福田赳夫親衛隊」などと言われることもあった。中川、石原、玉置ら、福田・岸系列に近い人間が多かったため、それらの指摘がある側面も存在する。マスコミの批判的報道に神経質になっていた中川は、取材を受ける際には記事に細かい注文をつけていた。結成から間もなくして、中華人民共和国に対する強硬論に反発した山崎拓が中川の度重なる説得にも翻意せず脱会し、それに続いて野田毅、綿貫民輔、内海英男ら離脱者が続いた。1977年になると、中川の農林大臣就任をきっかけとして、中川と渡辺が対立するようになった。1979年に解消。中川は石原ら一部のメンバーと青嵐会の意志を引き継いだ自由革新同友会(中川派)を結成した。衆議院議員26名、参議院議員5名(当選回数、所属派閥は当時のもの)。

出典:wikipedia

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