屋嶋城(やしまじょう/やしまのき、屋島城)は、香川県高松市の屋島に築かれた、日本の古代山城である。城跡は、1934年(昭和9年)11月10日、国指定の史跡「屋島」および、国指定の天然記念物「屋島」に包含される。『日本書紀』に 、「大和に高安城・讃吉に屋嶋城(やしまのき)・対馬に金田城を築く」と、記載された城である。いにしえの屋島は、南北5キロメートル・東西2キロメートルの島であり、瀬戸内海の主海路に面した要衝であった。しかし、江戸時代の塩田開発と後の埋立にともない、陸続きのようになる。屋島は南嶺の標高292メートル、北嶺の標高282メートル、山頂部は平坦で広い台地であり、両者は細い尾根で接続されている。南北嶺の山上全域が城跡とされている。山上の外周7キロメートルのほとんどが断崖で、南嶺の外周4キロメートルの断崖の切れ目に城壁が築かれている。山上からは山下の様子が明確に把握でき、メサの地勢を有効に活用した城で、懸門(けんもん)構造の城門の存在が判明したのは国内初のことであった。この懸門の存在は、大野城・基肄城と同様に屋嶋城の築城においても、百済からの亡命者が関与したことが窺える。浦生(うろ)集落の砂浜が広がる海岸から谷筋を登れば山上に通じた道があり、標高100メートルの山中に谷を塞いだ長さ約47メートル×基底部幅約9メートルの石塁と、台状遺構(物見台)がある。この遺構は大正時代に発見され、山上の石塁が発見されるまでは、屋嶋城の唯一の遺構であった。山上の城は、断崖を利用して城壁は築かれなかったとされていた。しかし、考古学の視点では未実証で、多くの研究者が実態の不明な古代山城に位置づけていた。2009年の調査で、7世紀後半代の遺構であることが判明した。屋嶋城は二重防御の城である 。浦生地区の遺構は、進入路を封鎖した遮断城で、大野城と水城・鬼ノ城と水城状遺構と同類とされている。城門は懸門構造に加え、城内側は甕城(おうじょう)であり、通路は北側に直角に曲がる。門道は階段状で、城内から城外に向かって暗渠の排水路が設置され、通路の両側の柱穴の検出により建造物(門扉)の存在が実証された。城門遺構の全長45m×高さ6mの石塁などが復元された。城門は幅5.4m×奥行10m、入口の高さ2.5m(段差)である。城門の南側は、内托式の城壁で、高さ6mの城壁がある。城門の北側は、夾築式の城壁で、北端は断崖に接続され、長さ10m×高さ5m×幅10mである。城門遺構の見学路などが整備され、2016年3月19日より、一般公開されている。南嶺山上の北斜面土塁は、斜面を利用し、幅約2m×長さ約200m×高さ約2mの石積みの背面に盛り土をした、内托式の土塁である。山上からは、西方約28キロメートルの香川県の五色台と岡山県の鷲羽山に挟まれた備讃瀬戸の海路を望むことが出来るとともに、讃岐城山城と鬼ノ城が視野に入る。島内には、北端に長崎鼻(ながさきのはな)古墳、北嶺山上に千間堂(せんげんどう)跡、東岸の入江(屋島湾)の一帯は源平合戦(治承・寿永の乱)の屋島古戦場、北端の岬に高松藩が築いた砲台跡などがある。屋嶋城跡は、瀬戸内海国立公園の指定地内に所在する。四国にある古代山城は、屋嶋城・讃岐城山城・永納山城の三城である。 いにしへの書に名高き屋島見ゆる広場にきそふ人のたのもし 屋嶋城あたりに鳴きしほととぎすむこうの谷に声しぼり鳴く 白村江に敗れしのちに築く城半ばくずれて石組みあらわ
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。