ビーイングブームは、1990年代に日本で発生した、ビーイング所属アーティストの楽曲がチャートの上位を独占した社会現象。1986年、TUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」をヒットさせ、一定の認知度を得る。1987年にTUBEと織田哲郎周辺アーティストがスペシャルユニット渚のオールスターズとしても活動。1990年初頭、フジテレビ系列の、毎週日曜日午後6時から6時30分にて放送が始まった『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマで、「おどるポンポコリン」が流れるやいなや、B.B.クィーンズとその楽曲が流行し、ミリオンセラーとなった。また、B'zがヒットし始めたのもこのころである。ただ、まだこの時点ではビーイングブームとは言えず、B.B.クィーンズから派生したMi-Keを含めてもコミックバンドとして見られただけであり、ごく一部の非バンドブーム系の楽曲に過ぎなかった。また、B.B.クィーンズ、TUBE、織田哲郎周辺アーティストを指して、「渚のオールスターズファミリー」と呼ばれることがあった。1991年秋、ビーイングは93年以降では定番となっていく"番組主題歌をすべて自社系列アーティストが担当する"という戦略を行っていく。その第1弾となったホテルウーマン(関西テレビ制作、フジテレビ系列)では結果的にB'zの「ALONE」がミリオンヒットを記録、T-BOLANの「離したくはない」も有線でロングヒットを記録するなど、結果的には大成功となった。またこのドラマにおいて、WANDSや大黒摩季など後のブームを牽引するアーティストのデビューの場にもなった。1992年秋、ZARDの「眠れない夜を抱いて」がテレビ朝日系列の『トゥナイト』のエンディングテーマとして、WANDSの「もっと強く抱きしめたなら」が三井生命のCM曲として、大黒摩季の「DA・KA・RA」がマルちゃんホットヌードルのCM曲として流れ、同時期に多くの人の耳に入ることとなった。これらのアーティストは当時ほぼ無名であり、無名のアーティストの曲が大量に流れることで、人々の話題がこれらのアーティストに集中した。情報不足の補完をする形で、同年10月からTBS系列で放送が始まった『突然バラエティー速報!!COUNT DOWN100』や、『COUNT DOWN TV』において、これらの曲とアーティストがたびたび紹介された。これにより、ビーイング系列のアーティストは短い時期に急速に認知度が高まった。しかもこの年代は団塊ジュニア世代が就職または進学をした時期であり、カラオケブーム、居酒屋ブームとあいまって急速にCD販売が伸びた。ビーイング系の楽曲はこの時流に乗り、バンドブーム以降を模索していた他社を圧倒して販売を伸ばした。ビーイング系列の躍進と他社の停滞により、オリコンチャートの上位をビーイング系列が占める現象が起こった。内容は以下の通りである。ランキングに上った楽曲の中には、1位を獲得していないものの長期にわたり人気が続き、結果としてヒットとなった作品も多数存在した(大黒摩季、T-BOLAN、DEEN、ZYYG、BAAD、MANISH、柳原愛子、REV、【ZYYG,REV,ZARD&WANDS featuring 長嶋茂雄】など)。なお、当時「ビーイング系列」とされるレーベルには、ZAIN RECORDS、B-Gram RECORDSなどがあった。これらの結果、1993年の年間販売ランキングは、ビーイング系列のアーティスト勢で占められた。1993年のオリコン年間総合売り上げチャートにおけるビーイング系アーティストの順位は1位ZARD2位WANDS4位B'z5位T-BOLAN10位TUBE11位大黒摩季32位DEENとなった。オリコン作詞家ランキングは、1位上杉昇2位坂井泉水4位稲葉浩志5位森友嵐士7位大黒摩季。オリコン作曲家ランキングは、1位織田哲郎3位松本孝弘6位大島康祐7位森友嵐士8位栗林誠一郎と、どのランキングもビーイング系列で占められることになった。ビーイング系列のアーティストは、登場当初こそ前述の番組やテレビ朝日系列『ミュージックステーション』で姿を現したものの、ブームが本格化すると5分間のビーイング宣伝番組「NO.」を除いてテレビ出演を減らした。意図的に情報量を減らすことで、人々の話題を得る手法を採った。結果、ファン化された者は情報を得るためにCDを買う連鎖現象が起こり、かつてないCD販売量を記録した。これに追従する形で、1993年半ばには他社からもビーイング風の作品が発売されはじめた。それらの作品群もビーイング系列とともに大ヒットし、平成不況の時期ではあったがレコード界全体が活性化することとなった。それぞれの新曲はドラマやCM(カメリアダイアモンドのCM等)とタイアップし、連続して視聴者に刷り込むことによって販売量を伸ばした。音楽界のこの傾向は1995年頃まで続き、ドラマタイアップ、CMタイアップ、曲自体の大量宣伝が、ヒット曲を生む公式とさえ言われた。時代背景として若者の話題が音楽に集中したため、まさに「曲を作れば売れる」時代であり、ビーイング系列の躍進はより確実なものになっていった。ただし、そのブームの中でも急造ゆえに長続きしなかったユニット、人気を出せなかったユニットもあり、それらの中には後述の衰退期を待たずに姿を消したものもある。森下由実子、SO-FI、矢嶋良介、DEEP'S等がこれに当たり、森下自身が音楽業界から身を引くことになった。また、ZARDなどへの楽曲提供で作曲家として知られる栗林誠一郎はこのブームの中で、ソロアルバムがランクイン出来ない状況であった。しかし不人気とはいうものの、2000年代に入ってからのCD不況期とはCD売り上げ数は全く異なり、数万枚程度の売れ行きでも「不人気」とされていた。1996年〜1998年には、avex、トイズファクトリー、沖縄アクターズスクール系列が躍進し、小室ブーム(avexブーム)が最盛期を迎えた。ビーイング系列は、B'z、ZARD、TUBE、FIELD OF VIEWなどを残して徐々に衰え、ランキング上位から姿を消していった。ビーイング系列は1998年9月に関西をはじめとする西日本を拠点にした新レコード会社GIZA studioを設立、1999年に再び以前とほぼ同様の手法で進出を試みた。しかし、倉木麻衣やGARNET CROW、愛内里菜らなどの成功以外はどれもデビュー後数曲で売れ行きや話題の息が切れたり、登場当初から全く話題にならないなど、非常に苦戦を強いられた。以後も引き続き新人を投入するも、GIZA系列が年間音楽チャートに姿を見せる機会は少なくなっている。2003年10月にはブームに一役買ったレコード会社である「ZAIN RECORDS」が「B-Gram RECORDS」に吸収合併され、2007年6月、坂井泉水の死去により過去の作品が再商品化されたり、他のビーイングブーム期の楽曲が「R35」と称するコンピレーションアルバムに収録された。それらは販売において十分な成績を収めるものの、世代によりそれらの商品に対する受け止め方が全く異なり、かつての「ビーイングブーム」楽曲が「なつメロ」化していることがより明らかになった。特に、リアルタイムでブーム期を経験していない若年層に至っては、知名度があるのは現在も活躍中か、もしくは近年まで長続きしたアーティストに留まるなど、アーティストによっても知名度に偏りが大きくなっている。その一方で増崎孝司、稲葉浩志を音楽プロデューサー業に進出させたり、東京にレコード会社「NORTHERN MUSIC」を設立したのが現状である。音楽事業では多数の所属アーティストの活動休止や引退など不振続きではあるが、豊富に蓄えていた財源で不動産事業などで大成功を収めており2015年現在でもグループ全体の売上高は300億円近い。:ビーイングの所属アーティストでない(累計に含まれない)
出典:wikipedia
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