置塩 章(おしお あきら、 1881年(明治14年)2月6日 - 1968年(昭和43年)10月20日) は、大正から昭和初期に関西で活躍した建築家。公共建築物を多く手がけ、ネオ・ゴシック様式を好んだ。1881年(明治14年)に、置塩藤四郎の長男として静岡県島田市に生まれる。1910年(明治43年)に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業、陸軍技師として陸軍省に入る。第四師団(大阪市)経理部に配属となり、第四師団管轄下の営繕全てにたずさわる。その後、1916年(大正5年)に大阪砲兵工廠の勤務となる。1920年(大正9年)都市計画法施行に伴い、技師増強のため兵庫県庁に移り、都市計画地方委員会技師、内務部営繕課長等を歴任。兵庫県徽章のデザインを行った他、県会議事堂、警察署、学校など多くの施設の設計を指導した。1921年(大正10年)に欧米各国を視察した。1928年(昭和3年)に兵庫県庁を依願退職し、置塩章建築事務所を開設、神戸を拠点に、全国からの設計依頼に応えた。また、神戸高等工業学校(現・神戸大学工学部)の講師も務めた。1952年(昭和27年)3月から1955年(昭和30年)6月まで兵庫県建築士会の初代会長を務めた。また、兵庫県建築会会長、日本建築士連合会理事、兵庫県文化財審議会委員、都市計画兵庫地方審議会委員なども歴任した。1952年(昭和27年)兵庫県文化賞、兵庫県建築功労者賞、1958年(昭和33年)藍綬褒章を受章。彼は、大の歴史好きであった。陸軍第四師団技師時代の1913年(大正2年)1月、陸軍被服廠倉庫の建設時に、地下約9尺(約2.7メートル)の地点に古瓦包含層を発見し、そこから蓮華文・重圏文の古瓦を掘り出し、そのあたりに難波宮が必ずあると確信する。その当時、「このまま70の年までは建築家でとおし、そのあと考古学を勉強して、きっとこの瓦にものをいわせてみせる」と思ったそうである。そして、後に難波宮大極殿跡を発見することになる山根徳太郎(当時、大阪市民博物館に在籍)にそれらの古瓦を見せたことが、後の難波宮の大発見につながった。尚、「置塩章」は「おじおあきら」ではなく「おしおあきら」と読む。
出典:wikipedia
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