モヒカン族("Mohican"、マヒカン族、"Mahican")とはアメリカインディアンの一部族。アルゴンキン語族系に属するインディアン部族である。ニューヨーク州のハドソン川上流、キャッツキル山地に住んでいて、狩猟や漁猟で生活していた。18世紀に白人が持ち込んだ天然痘などの疫病や戦いなどで大勢の"モヒカン族"が死んだが、現在ではウィスコンシン州ショーノー郡の、ストックブリッジ・マンシー共同体のストックブリッジインディアン居留地のレッドスプリングスやバーテルミなどにてマンシー族(デラウェア族)と共に"ストックブリッジ・モヒカン族"として、現在でも暮らしている。ほかにもニューヨーク州とマサチューセッツ州でも少数ながらコミュニティを結成して暮らしているのもいる。モヒカン刈り又はモホーク族に因むモホーク刈り(モホーク族もこの髪型をしていた)で有名である。頭部の左右を丸刈りあるいは剃髪して中間部分の髪だけを残す独特な髪型で知られるが、この髪型をする者は主に戦士だけである。しかし戦士が戦いに参加する際には、この髪型はあまり多くなかった。多くのモヒカン族は頭部にタトゥーをしていた。本来の呼び方であるマヒカンの名の由来は「オオカミ」を意味する「"Mahiingan"」で、同じアルゴンキン語族系でピークォット族から独立したモヒガン族がもともとそのように自称していた。モヒカン族は自らを「"Muheconneok"」(ハドソン川の彼らの名前)と呼んでいた。互いに名前はそれほど類似していなかった。しかし、白人の作家ジェイムズ・フェニモア・クーパーが、「モヒカン族の最後」でマヒカン族を「モヒカン族」と呼んだために、マヒカン族はモヒカン族という呼び名の方が有名になってしまった。彼らの自称は今でもマヒカンである。さらに、「モヒカン族の最後」が余りにも有名になって、「モヒカン族はすでに絶滅した」と思い込んでいる白人が多く、役所や関係省庁にまでこの対応をされて、権利問題の交渉でも門前払いを喰らうことが多く、この小説には非常に迷惑を受け続けているという。なお、モヒガン族の言語(マヒカン語)はピクォート族の言語に近かった。ワンパノアグ族とデラウェア族とは友好を結び取引をしていた。デラウェア族系のマンシー族とはウィスコンシン州で同盟していた。"モホーク族"やイロコイ連邦の部族とは敵対していた。1609年オランダ東インド会社に所属していたイギリス人ヘンリー・ハドソンは"モヒカン族"の土地・マヒカニタックに辿り着いた。 ハドソンは、ビーバーとカワウソ(オランダ人が最も望んだ毛皮の種類)が豊富に生息している事に気が付き、1614年までにオランダはビーバーなどの毛皮が取れるハドソン川流域に植民地を築いて、キャッスル島と呼ばれる島に植民を確立した。その頃、この地に定住する"モヒカン族"は、敵対するモホーク族との間で緊張が続き、戦っていた。結局"モヒカン族"は領有していたマヒカニタックの西から追い出された。その後、イギリスがオランダに代わり入植地を領有すると、さらに"モヒカン族"の土地は奪われ追い出されてしまった。さらにヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘、麻疹、ジフテリア、猩紅熱といったアメリカ先住民が知らない病気により多くの"モヒカン族"が死んだ。生き残った"モヒカン族"の一部は、デラウェア族とイロコイ連邦の部族の付近の部族に避難を求めた。他の多くの者は、ストックブリッジ(現マサチューセッツ州)に移住した。そして"モヒカン族"はストックブリッジ・インディアンと呼ばれるようになるが、やがて、再び追い出され、マンシー・デラウェア族()と共に、ウィスコンシン州に移住して行った。そこで"モヒカン族"は、マンシー・デラウェア族と盟約を結んだ。"ストックブリッジモヒカン族"とマンシー・デラウェア族は現在に至るまで一緒に生き残っている。
出典:wikipedia
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