デーモン・ホリンズ(Damon Jamall Hollins , 1974年6月12日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州出身の元プロ野球選手(外野手)。現在は、カンザスシティ・ロイヤルズ傘下のマイナーチームで打撃コーチを勤めている。カリフォルニア州のバレージョ高校を卒業後の1992年、アトランタ・ブレーブスからドラフト4巡目で指名され契約。1998年4月24日にメジャーデビュー。ブレーブスでは3試合の出場にとどまり、9月9日にロサンゼルス・ドジャースにトレード。ドジャースでは5試合に出場し、デビューイヤーは8試合出場で15打数3安打という成績に終わる。シーズン後解雇され、シンシナティ・レッズ、ミルウォーキー・ブルワーズ、ミネソタ・ツインズのマイナーを渡り歩くが、メジャーには昇格できなかった。2001年に古巣ブレーブスに復帰。2004年に6年ぶりにメジャーに昇格し、7試合に出場。シーズン後タンパベイ・デビルレイズに移籍し、2005年に30歳でレギュラーをつかみ120試合に出場。2006年は121試合に出場した。大塚晶則、長谷川滋利、藪恵壹、大家友和、高津臣吾らと対戦したことがあり、大塚からはヒットを2本記録している。ランディ・ジョンソン、カート・シリングから本塁打を放ったことがある。デビルレイズが契約を延長しなかったため、日本の球団を含む他球団に売り込みをかけ、2006年12月に読売ジャイアンツと契約した。単年契約で年俸は100万ドル。巨人との契約が決まり、「日本で何度も優勝しているジャイアンツでプレーするチャンスを得られて、大変エキサイトしているし、光栄。チームの優勝に貢献するために全力を尽くし、常にハードにプレーする」とコメントした。原辰徳監督はホリンズの打順について、「5番を期待」としていた。外国人枠の関係で開幕2軍が有力とされていたが、ジェレミー・パウエルが離脱したことから開幕を1軍で迎えた。4月当初は慣れない環境と初めて対戦する投手に戸惑い、打率も1割前半と不振に苦しんだが、4月15日の対ヤクルト戦で増渕竜義から来日初ホームランとなる3ランを含む猛打賞を記録。すると、この試合を契機に調子を上げていき、4月下旬には好調の打線の中で打点チームトップタイの17打点と好成績を収める。結果的に不振時に比べ打率を1割以上上昇させたものの、5月はスタメン落ちが多くなり、代打での出場が主になった。スタメンに復帰後は打順を8番から7番、7番から6番と打順が繰り上がって行き、6月9日の試合では当初の構想であった5番に座り、勝負強い打撃を披露した。巨人にはなかなか見られないタイプの外国人選手だったが、パウエル、ジェレミー・ゴンザレスとともに2007年オフに自由契約公示された。巨人で124試合に出場したが、他の国内球団を経ていない外国人選手で100試合以上出場したのは、1996年のシェーン・マック以来11年ぶりのことであった。同2007年オフ、カンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約。2009年1月、フィラデルフィア・フィリーズとマイナー契約。勝負強いバッティングが特徴的であり、2007年の勝利打点は9にも達している。この数字はチーム最多の阿部慎之助の12、小笠原道大の11に次いでチーム3位である。なお、二岡智宏も勝利打点9で並んでいるが、二岡は562打席での数字であるのに対し、ホリンズは407打席しか必要としておらず、ホリンズの勝負強さがうかがえる。2007年の開幕スタメンは鈴木尚広だったが、レフト谷佳知、ライト高橋由伸が確定すると徐々にセンターのレギュラーを任され、後半戦は打棒が復活した清水隆行などと併用された。開幕前は外野守備に不安がある、と言われていたが、守備範囲は狭いものの実際はエラーは少なく、ダイビングキャッチをすることも少なくない。送球も無難にこなしている。常に謙虚で真面目な言動や行動が目立つ。「ボクには父親がいない。母がすべてを教えてくれた先生だ。母はボクが小さい頃から『周囲への感謝の気持ちを忘れてはいけないよ』と繰り返していた。自然、その言葉がボクの座右の銘というか信条になった。どんな環境でプレーしていても、忘れたことはない」と語っているように、その人格は母親によって形成されたようだ。謙虚さと真面目さは「日本のことを知っている友人が教えてくれた。『ジャイアンツはヤンキースと同じで、人気があってみんなが注目している、伝統あるチームだ』と。そんなチームでプレイできることが誇りだ。声援も厳しい声も、すべて受け止めようと思っている。それが選手にかかってくる伝統の重さというものだ。それにチームメイトがいつも気をつかって声をかけてくれるから、1人じゃないんだと思える。ボクを受け入れチャンスをくれたチームに対して、全力で応えるのは当然じゃないか」といったコメントからもうかがい知る事ができる。巨人が通算5000勝を達成した試合(5月2日・対中日ドラゴンズ戦)で11回表に代打で登場し、中日の岩瀬仁紀から決勝タイムリー3ベースを放った。試合後は初めてのお立ち台に涙を浮かべながら「両チーム死力を尽くしたナイスゲームだった。一塁に最高のランナー(鈴木尚広)がいたのでホームランはいらないと思っていた。5000勝する球団なんてそうは無い。そんな勝利に貢献できて嬉しい。」と、チームメイトだけでなく、相手チームまでも讃えるコメントを語っている。2007年6月8日の楽天戦で有銘兼久から決勝の逆転3ランを放つが、ヒーローインタビューで有銘を讃えるコメントを残す。30歳で新人王資格を持っていた程に遅咲きな上、日本に来ても日本の野球に対応できない可能性もあったが、この事に関しては「待つことが僕の野球人生だった。だからギブアップはしない」と語っている。キャンプの段階から原監督自らがバッティング投手を務めたりと打撃のコーチングを行うことが多い。現在、日本野球に溶け込みつつあるが、本人の弛まぬ努力に加え、原を始めとした首脳陣の協力によるものも多く、ホリンズ自身「彼ほどに選手に気を使ってくれる監督には出会った事がない。ボクは原監督をリスペクトしている」と語っている。原監督も「彼は“No Excuse”(言い訳をしない)だからね」と讃えている。日本ではチームメイトやマスコミ、球場のファンなどから「ホリさん」と呼ばれている。メジャー時代のニックネームは本名を略した「D-HOLL」であった。応援歌やホリンズの専用応援にも「D-HOLL」が使われている。「ホリさん」と呼ばれていることに対し、「小さい子供から大人までホリさんと呼んでくれる。意地悪やバカにした気持ちではなく、親しみを込めてそう呼んでくれてるのが響きでわかる」と語っている。
出典:wikipedia
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