ジンギスカン()は、1979年から1980年代前半にかけて活躍した西ドイツの音楽アーティストグループ。1979年にデビューした西ドイツのミュンヘン出身の男女6人組(後に5人組となる)の音楽アーティストグループ。『ジンギスカン』や『めざせモスクワ』などが世界的に大ヒットした。1985年に解散したが、2005年12月にスティーヴの手で再結成され、2006年から20年ぶりに活動を再開させることが報道された。1994年に他界したルイスと、スケジュールの調整がつかなかったレスリーを除く4人にゲストダンサー3人を加えたメンバーによる初のライブが12月17日にモスクワのオリンピックアリーナで行われた。2006年5月7日にスティーヴが他界し、翌2007年は残るエディナ、ヘンリエッテ、ヴォルフガングの3人に、新たに7人からなる「遺産(The Legacy)」というバックダンス&コーラス集団を加え活動を続けている。グループ名は、モンゴル建国の英雄チンギス・ハーンのドイツ語表記Dschinghis Khan (ジンギス・カン)に由来する。このグループ名は英語圏でもドイツ語表記のままで受け入れられている。しかし、日本版CDでは契約の関係から、英語表記に由来する『ジンギスカン()』が用いられている。2005年の復活の後に開設された公式Webサイトは『チンギス・カンとジンギスカンの遺産 (Dschinghis Khan & The Legacy of Genghis Khan)』と名乗り、1979年以来のオリジナル・メンバーを『チンギス・カン (Dschinghis Khan)』、2007年に招集したバックダンス&コーラス集団を『ジンギスカンの遺産 (The Legacy of Genghis Khan)』と呼び、サイト内の情報を分類・整理している。1979年、西ドイツの音楽プロデューサー、ラルフ・ジーゲル ()と、経済学者であったベルント・マイヌンガー ()が、当時人気を博していた西ドイツのアーティスト、ボニーMのヒット曲『怪僧ラスプーチン』 (Rasputin) をモデルとして『ジンギスカン』という楽曲を作った。それをヨーロッパのポップ・ミュージックの登竜門でもある「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」に応募するためにメンバーが集められ、結成したのがこのグループである。6人のうちルイスは企画当初からメンバーとなることが決まっており、彼を除く5人はオーディションで選ばれた。1979年のユーロビジョン、ドイツ国内予選ではグランプリを獲得したものの、本選では4位に終わりグランプリはならなかった。楽曲の多くの作詞はマイヌンガーが、作曲はジーゲルがそれぞれ担当したが、後にはグループのメンバーも作曲を手掛けるようになった。『ジンギスカン』解散後、ルイス、レスリー、ヘンリエッテの3人に上記メンバー3名を加え、チンギスカン・ファミリー (Dschinghis Khan Family)のグループ名で、あしかけ3年間活動した。2007年に招集された以下のメンバーは、公式サイトで『遺産』 (The Legacy)あるいは『ジンギスカンの遺産』(The Legacy Of Genghis Khan)と呼ばれるダンサー集団である。ミュージカル俳優として訓練を受けた人々で、コーラスも担当する。ドイツのチャートでは「ジンギスカン」が1位、「めざせモスクワ」が3位、「ローレライ」が6位、「ハッチ大作戦」が7位と4曲のTOP10入り楽曲がある。楽曲は国や地名・特定の人物をモデルにしたものが多い。なお()内は邦題。ジンギスカンは、楽曲『ジンギスカン』の強烈なインパクトにより、1970年代後半からディスコなどのダンスシーンでアラベスクなどとともに人気を博した。また、それにより当時の竹の子族と呼ばれる若者にも多大な影響を与え、数多くのカバー曲も生まれた。モーニング娘。の楽曲『恋のダンスサイト』などでフレーズが引用されたこともある。1995年エディナ・ポップ、スティーヴ・ベンダー、レスリー・マンドキの3人が来日して『なるほど!ザ・ワールド』に出演した(日本公演を行っていないため、この日が初来日)。この時3人は『ジンギスカン』と『めざせモスクワ』を生で歌っている。また、インタビューの時レスリー・マンドキは「友人と会社を経営しています」と答えていたという(外部リンクを参照)。また、2005年に『めざせモスクワ』が、いわゆる空耳ソングとして注目を集め、『もすかう』のタイトルで、ネット上で多数のFlashムービーが制作され、話題になった。
出典:wikipedia
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