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村下孝蔵

村下 孝蔵(むらした こうぞう、1953年2月28日 - 1999年6月24日)は、日本のシンガーソングライター。「初恋」「踊り子」「ゆうこ」「陽だまり」などのヒット曲がある。熊本県水俣市出身。水俣市立水俣第一小学校、水俣市立水俣第一中学校、鎮西高等学校、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科卒業。1953年2月28日、熊本県水俣市浜町仲之町通りで、映画館(村下興業社)を営む夫婦の第3子として生まれる。最盛期の村下家は、水俣市と周辺に7軒の映画館を経営した資産家だった。生まれて間もない頃の村下は泣くことが少なく、近隣の住人に「生まれたと聞いたけれど泣き声がしない」と不思議がられたという。村下は、そのまま無口な少年に育った。姉によると、幼少期の村下は実家が営む映画館で一番前の席に座って映画を観たり、一緒にラジオで歌謡曲を聴いたりして過ごすことが多かった。1959年、父が鹿児島県出水市本町商店街に新たな映画館(泉映)を建てると一家は転居し、1年ほどで水俣市仲之町通りに戻った(一年間出水市立出水小学校に通う)。この頃、村下は姉とともにロカビリーに夢中になった。村下は日劇ウエスタンカーニバルの映像を映画館で観て、歌手への憧れを口にすることもあった。映画館の事務所には休憩時間にかけるレコードが置かれていて、村下は姉とともに聴き漁った。村下はエレクトリック・ギターの音に興味を抱くようになり、寺内タケシとブルージーンズを好んで聴いていたが、やがて「こっちのほうがすごい」とベンチャーズに夢中になった。1965年、映画『エレキの若大将』で加山雄三の「夜空の星」を聴いたことをきっかけに「ボクも作曲する。歌う。エレキギターも持つ」と言うようになる。村下はかねてから両親に、エレキギターをせがんでいたが、「不良になるからダメ」、「弾けもしないうちから買ってどうする」といった理由で聞き入れられなかった。そこで村下は、加山のギターをモデルにラワン材を使ってギターを自作した。ギターが完成すると三面鏡の前に立ち、加山の演奏スタイルを真似ていたという。高校進学後の1969年、村下は憧れだったモズライト・ギターを父親から買い与えられた。父親は1967年に収益の悪化していた映画館を廃業し、新たな事業として温泉の採掘を行ったが失敗、その後は阿蘇市のホテルに就職し、母親とともに転居。村下は、水泳部の特待生として鎮西高等学校に入学し、寮生活を送った後、北九州市の短期大学に入学した姉と熊本市内で同居した。1971年、高校を卒業した村下は得意の水泳で実業団・新日本製鐵八幡製鐵所入り 。当時の部員によると、高校で実績を残した(1969年、中部九州大会平泳ぎ100メートル優勝)とはいえ実業団の中では平凡な選手で、ギターが得意であったため宴会部長として活躍。同年9月に同社を退職。落合昇平は寮生活を送る中、ギターを弾く時間がほとんどないことに悩んだのだろうと推測している。当時父親は東洋工業に転職して広島市に転居しており、音楽中心の生活を目指し村下も広島へ移った。1972年、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科入学。広島に来て間が無い村下には友達がなく、平和公園で一人でギターを弾くことが多かった。『エレキの若大将』に憧れ、ベンチャーズに心酔していた村下が、広島でエレキ・ギターをフォークギターに持ち替え、曲作りを始めた理由は、当時の広島は吉田拓郎のコピーをやる人が多く、フォークギターを持たなければ仲間が作れなかったためであった。同年夏、僅か300枚の自主制作シングル「ひとりぼっちの雨の中」を発表。同校卒業後ヤマハ広島店に就職し、二年間、ピアノ購入契約で実績を挙げ、1975年からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテル法華クラブ広島のラウンジで弾き語りのアルバイト等で地道に音楽活動を継続した。1979年、ヤマハを退社し自主制作レコード『それぞれの風』を発表。レコーディングの様子はテレビ番組(『青春音楽列島「それぞれの風」』)として放映された。この番組のディレクターを務めた人物は中国放送の那須和男だった。那須は偶然観た村下の演奏に惹かれ、『たむたむたいむ』のパーソナリティーに村下を推薦するなど村下をバックアップしていた。『たむたむたいむ』で、当時まだ大学生だった西田篤史とコンビを組む。この頃の村下は第2期の広島フォーク村に参加するなど広島の音楽好きには知られた存在となっていた。村下は『それぞれの風』でヤマハ主催のポピュラー音楽コンテストに応募したが、受賞はならなかった。1979年、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディション(第1回CBS・ソニーオーディション)に応募し、グランプリを獲得。しかしCBSソニーとしては、当時流行っていた山下達郎や南佳孝などのシティポップス系のアーティストを探しており、フォーク系でそれなりに年齢も重ねていた村下の将来性を巡ってはCBSソニー社内でも意見が分かれた。プロデューサーとして村下の全作品を手がけた須藤晃によると「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。ただ楽曲や声のよさは誰もが認めるところで、中国放送がバックアップしていたこともあり何とかデビューが決定、1980年、27歳の時、シングル「月あかり」でプロデビューした。同期合格者にはHOUND DOG、堀江淳、五十嵐浩晃らがいた。プロになると決意した村下は、最高のギターを持っていたいという思いから馴染みの楽器店でマーティンD-45を購入している。プロとなった後も、テレビ出演はせず、広島を拠点に地道にライブ活動を続ける。このためプロの歌手になったからと言って、デビュー直後に劇的な変化はなかった。1981年1月にリリースされた2枚目のシングル「春雨」は、地道なプロモーションを重ねて、チャート最高位58位を記録、およそ3ヵ月半に渡ってチャートにランクイン。1982年発売の「ゆうこ」は、チャート最高位23位を記録、約7か月半にわたってチャートインした。この「ゆうこ」のタイトルになっている女性は日本画家・船田玉樹の娘で、村下とこの時期に結婚しており、後にシンガー・ソングライターとなる娘を儲けている(1985年離婚、村下はこの後再婚)。同年10月、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に初出演した。1983年、30歳にして発表した5枚目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなる。「初恋」は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であった。水谷はかねてから須藤晃に「もうフォークにこだわらなくてもいいんじゃないか」と進言していた。水谷は村下を、「でっかい人だった。人にゆだねる強さがあった」と評している。村下の元マネージャー嶋田富士彦によると、村下の楽曲は有線で強く支持され、地方では演歌に似たチャート変動を示した。嶋田によると、村下の楽曲はフォークテイストでありながらもベンチャーズに由来する「切れ味の良いロック感覚」も持ち合わせていたが、音楽業界の中でもレトロな印象を抱く者の方が多かったという。「初恋」発売の前後に村下は肝炎を患い、「初恋」がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できなかった。また、肝炎が原因で広島と東京の往復が出来なくなり、1984年末に生活の拠点を東京に移した。同年秋から全国ツアーを開始したが翌1985年に再び体調が悪化し、入退院を繰り返した。この時期に、広島から定年退職したばかりの父親も東京で暮らし始めた。1987年に全国ツアーを再開。この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となった。1988年、神奈川県川崎市のCLUB CITTA'で行われたベンチャーズのライブにゲストとして出演。ベンチャーズと一緒に演奏するという夢を叶えた。1989年、アルバム『野菊よ 僕は…』を発売。須藤晃によるとこの頃アルバムの売れ行きが落ち込みを見せ、村下にも須藤自身にも焦りが生じたという。1992年発売のシングル「ロマンスカー」は「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作し、完成時に村下が「やっと納得する作品が出来た!」と語った渾身の作品であったが売れず、須藤は「時代が違ってきたんだ」と感じたという。この時期の村下は試行錯誤の末、「自分には"初恋"を越える曲はできんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地に至った。1999年6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然「気分が悪い」と体調不良を訴え、当初は救急車も呼ばずスタッフ付添のもと自力で病院を訪れていた。診察で「高血圧性脳内出血」と判明した直後、意識不明の昏睡状態に陥り、僅か4日後の6月24日に死去。。葬儀は6月26日に営まれた。夫人の希望により、出棺の際には村下が生前最も気に入っていた楽曲「ロマンスカー」がかけられた。7月3日には東京の渋谷公会堂でお別れ会が、8月8日には広島市内の寺院において音楽葬が営まれた。戒名は「乾闥院法孝日藏清居士」、墓所は茨城県稲敷郡茎崎町(現・つくば市)の筑波茎崎霊園にある。

出典:wikipedia

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