伊那県(いなけん)は、慶応4年(1868年)に信濃国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は現在の長野県全域に広く分布している。のちに管轄区域を変更し、現在の長野県南部、愛知県東部を管轄した。江戸幕府のもと、信濃国内の幕府領(約21万8000石)は、飯島陣屋(現在の上伊那郡飯島町)、中野陣屋(現在の中野市)、中之条陣屋(現在の埴科郡坂城町)、御影陣屋(現在の小諸市)、塩尻陣屋(現在の塩尻市)の5つの代官所によって管轄されていた。戊辰戦争後は一部地域が新政府の命で尾張藩(のち名古屋藩に改称)、松本藩、松代藩の預かりとなるなど複雑な経緯をたどったが、慶応4年(1868年)、飯島陣屋に伊那県が設置され、旗本領も含めて徐々に一元化されていった。明治2年(1869年)に信濃国北部が中野県(のちに長野県に改称)として分立、三河県を編入して管轄地域が大幅に変更されたが、明治4年(1871年)、廃藩置県後の第1次府県統合に伴い信濃国、飛騨国の6県が筑摩県に統合されたことにより廃止された。三河国は額田県に移管されている。天保5年(1834年)の信濃国郷帳における天領は以下の通り(下三桁四捨五入)。三河県から編入された三河国内の管轄地域については、碧海郡、額田郡、加茂郡、設楽郡、宝飯郡、渥美郡、八名郡に分布していたが、「旧高旧領取調帳」では既に額田県の管轄となっているため詳細は不明。のちに筑摩郡、伊那郡を除く6郡が中野県に移管された。のちに編入された龍岡藩領は額田郡、加茂郡に存在した。1870年から1871年にかけて山下郡介、永山盛輝(元鹿児島藩士)が大参事(知県事に次ぐ地位の役職)を務めた。
出典:wikipedia
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