西歌駅(にしうたえき)は、北海道(空知管内)歌志内市字文殊にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)歌志内線の駅である。電報略号はニタ。1908年(明治41年)12月、住友石炭鉱業赤平砿業所歌志内砿(以下住友歌志内炭砿と略)の前身である中村炭砿が貯炭場までの分岐線を設けた。その後この炭砿はいくつかの企業の経営権移動を経て1928年(昭和3年)12月から住友の経営となった。分岐線は当駅ができるまでは神威駅管理であったが、分岐点が神威駅から約1.5kmと遠く離れていた事、1960年(昭和35年)にディーゼルカーが導入された事等により、住民と石炭積み出しの利便を図るため、市が土地と建設資金の一部を負担する条件で当駅が開設された。これにより住友歌志内炭砿の分岐線は当駅管轄となって、1971年(昭和46年)9月の同砿閉山まで石炭貨物の取扱を行なった。なお、当駅が開設される以前、上記住友歌志内炭砿専用線の当駅方に三井鉱山砂川鉱業所文珠砿(以下三井文珠炭砿と略)の選炭工場と積込ホッパーが置かれており、同専用線を共同使用していたが、さらに大正期から昭和初期(時期不詳、昭和5年から昭和12年の間に廃止)に掛けて本線を挟んで南側(ペンケウタシナイ川側)にも積込ホッパーと専用線を有していた。後に文珠炭砿と称されるようになった炭鉱は1895年(明治28年)に後の上砂川駅裏の三井砂川鉱第二選炭機裏手に開坑した。当時はまだ上砂川支線が無かったため砂川駅まで道路を開削して馬搬していたが、その後1903年(明治36年)に坑口を歌志内線側に設けた。1904年(明治37年)に3人の共同経営者により文珠炭鉱と名付けられる。その後1908年(明治41年)に北海炭礦㈱の手に渡った。この北海炭礦は後の文珠駅に近い大曲の貯炭場へ馬車軌道を敷設し、さらにそこから神威駅まで人力で運搬していた。後に馬車鉄道を神威駅へ延伸させたと思われるが真相は不明。その後1917年(大正6年)から田中礦山㈱の経営となり、1922年(大正11年)3月3日より三井鉱山の経営となったが、その間に上記2本の専用線を利用するようになった 。三井文珠炭砿は1954年(昭和29年)に閉山した。廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する無人駅であった。「西歌志内」を略して、この駅名になったといわれている。
出典:wikipedia
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