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板垣氏

板垣氏(いたがきし)は、日本の氏族のひとつ。人皇第56代清和天皇の苗裔、新羅三郎義光の後胤で武田氏の支流である。本姓は源氏。家紋は「地黒花菱」。甲斐を本貫とするが、本流武田氏の安芸・若狭増封に従い下向したため、甲斐のみならず両国においても繁栄した。武田信義の三男である三郎冠者兼信が甲斐国山梨郡板垣郷(現・山梨県甲府市善光寺周辺)を領して、板垣氏を称したのが始めである。板垣兼信は源頼朝に従い鎌倉幕府の草創に貢献したが、のちにその勢力拡大を恐れた頼朝から疎んぜられたため、所領の経営について違勅の罪を問われ、文治5年(1189年)、建久元年(1190年)、と相次いで、駿河国大津御厨、遠江国榛原郡双侶荘の地頭職を解任され、子らと共に隠岐国へ配流された。配流を逃れた子孫は世々武田氏に仕えた。建治元年(1275年)5月六条八幡新宮造営費用として甲斐国より3貫を納めた。また、甲斐国を遊行した他阿真教の活動を記した「遊行上人縁起絵」巻8には真教に同行し、河口(富士河口湖町)で真教と別れ、真教御影の前で往生を遂げる板垣入道の姿が描かれ、兼信の子孫であると考えられている。戦国時代には板垣信方が武田信虎・晴信(信玄)に仕え、晴信期には同じく譜代家臣の甘利虎泰とともに武田家の最高職である「両職」を務めたといわれる。信方は信濃国侵攻において諏訪城代を務め天文17年(1548年)に上田原の戦いで村上義清軍に討ち取られた。跡を継いだ子の板垣信憲は信玄の勘気を被り殺害され、一旦板垣氏は断絶したが、信玄の命によって於曾信安が、板垣氏の名跡を再興して板垣信安と名乗った。信安は甲斐武田氏滅亡後に真田家に仕えた。  板垣三郎冠者兼信甲斐板垣氏族の中村氏は、甲斐国八代郡中村庄から興った甲斐武田氏族で、板垣兼信を祖とする。兼信の二男が板垣頼重(六郎)であり、板垣頼重の四男、板垣長兼(八郎)が氏を武田に復して武田長兼(大蔵允)と称した。武田長兼の子武田信貞は南北朝期、八代郡中村庄を領し、信貞の子、兼邦の代に中村氏を称した。この中村兼邦の子、中村兼貞(大蔵大輔)の代に安芸武田氏に仕えて安芸国へ移り、安芸国高田郡上土師・中土師・下土師を領した。この系統から中村元明らを輩出した。

出典:wikipedia

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