赤壁の戦い(せきへきのたたかい、中国語:(簡体字:赤壁之战、繁体字:赤壁之戰)は、中国後漢末期の208年、長江の赤壁において起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである。河北を平定した曹操は、208年7月、荊州の牧であった劉表を攻めるため兵を率いて荊州へ南下したが8月にその劉表が死に、劉琮が9月に曹操に降伏した。孤立した劉備は長江づたいに南下し、長坂の戦いで生き延び、劉表の弔問を建前に荊州の動向を探りに来ていた魯粛と面会。1万人余りの軍勢を率いる劉琦と合流しつつ夏口へ到達した。曹操は劉表が創設した荊州水軍を手に入れ、南下して兵を長江沿いに布陣させた。数十万の兵を擁すると言われる曹操の大軍勢を前に孫権の陣営は恐れを抱いた。しかし、都督の周瑜は「中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れておらず、土地の風土に慣れていないので疫病が発生するだろう。それに曹軍の水軍の主力となる荊州の兵や、袁紹を下して編入した河北の兵は本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、勝機はこちらにある」と分析し、孫権に開戦を説いた。魯粛は劉備に孫権と同盟を結んで曹操と対抗するように説き、劉備は諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結び、孫権は周瑜・程普ら数万の水軍を劉備の救援に派遣した。一方の曹操軍も長江を下り、両軍は赤壁で一戦を交え、周瑜らは疫病に悩まされていた曹操軍を撃破した。『三国志』魏書武帝(曹操)紀の原書には、「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、不利だった。疫病が流行して、官吏士卒の多数が亡くなったので、撤退した」と書かれている。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『山陽公載記』には、「曹操は軍船を劉備に焼かれ、徒歩で撤退した。劉備は曹操を追撃して、火を放ったが、曹操に逃げられた」と書かれている。『三国志』呉書周瑜伝には周瑜の部将の黄蓋は、敵の船団が互いに密集していることに注目し、火攻めの策を進言した。そして自ら曹軍に対し偽りの降伏を仕掛け、曹軍が油断した隙をつき、油をかけ薪を満載した船に火を放ち敵船に接近させた。折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。船団は大打撃を受け、おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。曹操は後退し烏林に陣を張り、周瑜らも長江を挟んで対峙した。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『江表伝』には、この時、周瑜らは渡渉し陸上から曹操の陣に追撃をかけ、曹操軍は潰走したと書かれている。『三国志』蜀書先主(劉備)伝には、「劉備は孫権陣営の周瑜・程普らと力を合わせ、赤壁で曹操を大いに破り、曹操軍の軍船を燃やした」と書かれている。『英雄記』には、「曹操は赤壁から長江南岸に渡ろうと思ったが、船がなかったので筏に乗り漢水沿いに注浦口まで行ったが夏口を周瑜たちが守備していたためすぐに渡ろうとしなかった。周瑜は夜中に密かに軽船・走舸一百艘をやって筏を焼かせた。曹操は夜中に逃走することとなった」と書かれている。曹操は残った船を燃やして、敗残兵をまとめて撤退した。疫病で曹操軍の多くの役人・士卒が亡くなった。『三国志』呉書呉主(孫権)伝には、曹操軍の敗残兵の大半が飢えと病で亡くなったと書かれている。劉備・周瑜らは水陸並行して更に追撃して、南郡まで兵を進めた。曹操は慣れない江南の地で疫病の流行に悩まされたこともあり、江陵を曹仁に、襄陽を楽進に託し、自らは北方に撤退した。赤壁の戦いの前後に孫権は合肥を攻撃したが、曹操は張憙に千人の兵と汝南で集めた兵を率いさせて合肥の救援に向かわせた。そして曹操配下の蒋済が流した、「軍勢4万が合肥の救援に向かっている」という偽情報を信じた孫権は即座に撤退したという。いつ孫権が合肥を攻撃したのかについては諸説あるが、孫盛は「赤壁の戦いで劉備らが曹操を破った後、孫権が合肥を攻撃した」というのが正しいとしている。208年冬、南郡に進撃した周瑜軍は、曹仁と長江を挟んで対峙した。甘寧は夷陵城を奪取することを提案し、周瑜はこの提案を採用、甘寧は数百人の部隊で夷陵城を奪取した。曹仁は甘寧に対し即座に5000人規模の部隊を派遣し夷陵を包囲させた。このとき甘寧は降兵とあわせて僅かに千人あまりの兵を率いているだけであったが、包囲されても泰然として指揮をとった。周瑜は呂蒙の献策をいれて、凌統の部隊に守りをまかせ、自ら夷陵城を包囲する敵軍を攻撃して破り、夷陵を完全確保することに成功した。その後、曹仁は渡河したばかりの周瑜の先鋒部隊(数千人)に陥いれられた配下の将牛金を僅か数十人で包囲網に突入して救出し、それを見た部下たちは「将軍は真に天人なり」と感嘆した。双方の軍隊が対峙を始めたが、この時、正面決戦の末に、周瑜は流れ矢を受けて重傷を負った。曹仁は周瑜重傷を知り、周瑜軍へ進撃した。しかし、周瑜は重傷のまま戦に臨み、曹仁の攻撃を退けた。交戦開始から一年を越え、曹仁は周瑜・劉備らに包囲され、関羽にも北道を封鎖されたため窮地に陥った。だが、李通が関羽を攻撃し、周瑜・劉備らの包囲陣に突入し、曹仁軍を救出したため、曹仁らは江陵を捨て撤退した。こうして、周瑜らは江陵を占拠し、南郡を平定した。この間、南部の4郡は簡単に劉備軍に降伏して、劉備は前より大きく勢力を伸ばした。曹操は赤壁の戦いでの被害があまりにも大きかったためか、劉備・周瑜らの荊州攻めに全くと言ってよい程効果的な手を打てず、一度は確保した荊州の南郡以南を全て失った。小説『三国志演義』における赤壁の戦いは史実に基づきつつも、その記述には創作が多々含まれている。208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと7月に50万の兵を率いて南下を開始した。ちょうどそのころ劉表が亡くなり、劉琮と後見人に付いた蔡瑁は、曹操に降伏してしまう。曹操は荊州の兵を合わせ100万と号した。劉備は諸葛亮の進言を容れず荊州を奪う事を諦め、曹操軍に追われながらひたすら南に逃げるが、大量の領民を引き連れたため進軍速度が上がらず、長坂坡で追いつかれてしまう。この危機を趙雲と張飛の活躍で逃れ(長坂の戦い)、夏口の劉琦の下へ落ち延びる。一方、江東に勢力を伸ばしていた孫権はこの報に驚き、文官武官を集めて降伏するか戦うかの会議を始めた。文官のほとんどは降伏を主張していたが、そのころ劉備の軍師だった諸葛亮が訪問し、魯粛も主戦論に偏っていたためにこれを利用し、孫権の説得を始める。兄孫策の義兄弟でもある周瑜も後からやってきて主戦論を主張したために孫権は降伏派を一蹴し戦うことを決める。このとき孫権は自分の机を刀で切りつけ、「これより降伏を口にした者は、この机と同じ運命になると思え」と言い放ち、開戦を宣言する。当初、周瑜は曹操に降伏する考えであったが、諸葛亮から曹操が「二喬」(自分と義兄弟の孫策の妻である姉妹)を欲しがっていると聞かされ、更にその望みを謳った曹操の子曹植の詩「銅雀台賦」を諸葛亮が諳んずるに及び激怒、孫権に対し主戦論を主張し、決戦を決意させた。両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し、周瑜は計略を使い、荊州水軍の要である蔡瑁を謀殺する。蔡瑁謀殺後に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中・蔡和に対して偽情報を曹操軍に流させるなど大いに利用した。周瑜は諸葛亮にわざと難題を与えて処断させることを企図して「10万本の矢を集めて欲しい」と依頼を出す。しかし、諸葛亮は自ら3日と期日を決めて快諾。夜霧に乗じて船を出し、曹操軍から10万本の矢を船に射掛けさせて矢を回収した。そして、苦肉の計を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ曹操軍内に下らせた。また、火計を効果的にするために、当時まだ野にいた龐統を使い、曹操に対して船上ですぐに酔ってしまう兵士達のためにと船同士を鎖でつなげる「連環の計」を進言し実行した。問題は、当時の季節の10月には東南の風が吹かないと言う事だった。この方向に風が吹かないと、火計を用いた場合自分達の水軍にも被害が下る恐れがあったのである。諸葛亮は東南の風を吹かせると言い、祭壇を作り祈祷すると、どこからか東南の風が吹く。機は熟したとばかりに黄蓋が藁を積んだ船に火をつけさせ火計を実行、「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上する。更に東南の風で地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られた。なお周瑜が自分を殺そうとしている事を察知した諸葛亮は、東南の風が吹いた直後にその風を利用して劉備の下へ逃げ去った。一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかけた。しかし諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、殺す事は不可能であるし、殺しても今度は呉が強大になって対抗できなくなるだろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認した。こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、以後劉備と孫権の係争地となる。赤壁の古戦場と伝えられる場所は、長江・漢水沿いに数カ所存在し、その是非については現在も議論があるが、有名なものは二箇所ある。
出典:wikipedia
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