『申命記』(しんめいき、)とは旧約聖書中の一書で、モーセ五書のうちの一書で5番目に置かれてきた。ヘブライ語では冒頭の語から『デヴァリーム』と呼ばれるが、これは「言葉」という意味である。『第二法の書』とも呼ばれ、七十人訳聖書では『デウテロノミオン』()、ヴルガータ聖書では『デウテロノミウム』()の名称で呼ばれている。これは七十人訳の訳者が17章18節になる「律法の写し」という言葉を「第二の律法」という意味に誤訳したことからつけられた名称である。日本語の『申命記』という言葉は漢語訳聖書の名称から来ており、「繰り返し命じる」という意味の漢語である。『申命記』は、伝承では死を前にしたモーセがモアブの荒れ野で民に対して行った3つの説話をまとめたものであるとされている。古代以来、伝承ではモーセ五書はすべてモーセが書いたとされていた。タルムードは、初めてモーセがモーセ五書のすべてを書いたという伝承に関する議論を提起した。どうやってモーセが自らの死を記述しえたのかという疑問が示されたのである。あるラビはモーセが自らの死と埋葬を予言的に記述したという見解を述べたが、多くのラビたちはモーセの死と埋葬に関する部分のみヨシュアが書いたということで、この疑問への答えとした。中世に入ると12世紀のユダヤ人聖書学者アブラハム・イブン・エズラがモーセ五書に関する初の学術的研究を行って、『申命記』は記述のスタイルや語法が他の四書と異なっていることに気づいた。彼は古代以来の伝承に従っておそらくスタイルの違いはモーセとヨシュアの違いによるものだろうと考えたが、15世紀のドン・アイサック・アブラヴァネルは『申命記詳解』の序文で申命記のみ他の四書と違う(ヨシュアでもない)別個の著者の手によるものという見解を示した。近代に入ってから、旧約聖書とイスラエルの歴史に関する学術的な研究がすすむと『列王記下』の終盤と『歴代誌』34章であらわれヨシヤ王治下での宗教改革と『申命記』を結びつける説が18世紀初頭W・M・L・デ・ヴェッテにより初めて唱えられた。その部分の記述によれば紀元前621年、ヨシヤ王は聖所から偶像崇拝や異教の影響を排除した。その過程で大祭司ヒルキヤの手によって律法の失われた書物が発見されたというのである。ヒルキヤはヨシヤ王にこの書物を見せ、2人は女預言者フルダにこれが失われた律法の書であることの確認を求めた。フルダがこれこそが本来の律法であると告げたため、王は民衆の前でこの書を読み上げて、神と民の契約の更新を確認し、以後の儀式がこの書にもとづいて行われるむねを告げた。タルムードの中のラビたちの伝承と同じく、近代の研究者たちもこの「失われた書物」は『申命記』に他ならないと考えた。『申命記』はモーセ五書の中で唯一、「ただひとつの聖所」の重要性を訴えている。当時、多くの場所にあった聖所を一箇所にまとめること、それによって王権を強化することがヨシヤ王の改革の狙いだったのではないかと考えられたのである。このことから、ヨシヤの改革を「申命記改革」(「申命記革命」「申命典革命」とも)と呼ぶ。ラビたちはなぜヨシヤ王とヒルキヤが女預言者フルダにのみ書物を見せ、同時代のもっと有名な預言者エレミヤとゼカリヤに見せなかったのかという非常に重要な疑問も示している。これに対するラビたちの解答は、ゼカリヤは病気であったから、エレミヤは遠出していたからというものであった。デ・ヴェッテのモーセの著者性を否定する文書仮説をリベラル派でそのまま受け入れる人は少ない。しかし、申命記を前7世紀のものとする立場はほとんどの批評学者が受け入れている。ウェインフェルトは、その根拠として申命記の構成が前7世紀のアッシリヤ国家の条約文の表現形式に影響されていることを挙げている。それに対し、保守的聖書学者のK・A・キッチンは申命記1章-32章の構造は前2千年期後半の宗主権条約の形式に合致しており、申命記の著作年代を前7世紀にする必要はないと考える。ユダヤ教正統派やキリスト教福音派では『申命記』の著者がモーセであり、実際に失われてヨシヤの時代に再発見されたとされている。申命記1章1節の各翻訳における記述は以下のようになっていて、その訳出は安定していない。モーセが著者であるという説を採用した場合、口語訳の表現は「著者がヨルダン川のこちら側にいる」ということになる。モーセはヨルダン川の手前でピスガの頂ネボに登り、約束された国を目にしながらこの世を去ったため矛盾する。
出典:wikipedia
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