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昔々亭桃太郎

昔々亭 桃太郎(せきせきてい ももたろう)は落語の名跡。当代は2代目(落語芸術協会のHP上では3代目)。昔々亭桃太郎(山下喜久雄)は自称「二十四代目」と称していたが、近年の調査では過去にそれほど多い数はなく、当代桃太郎(柳澤尚心)を入れても『古今東西落語家事典』によれば5代目か6代目くらいではないかと言われている(尚、当代は亭号を昔昔亭とし落語芸術協会のHP上では3代目としている)。このように、落語家の名跡の代数は概していい加減なものが多い。先代(自称24代目)昔々亭 桃太郎(1910年(明治43年)1月2日 - 1970年(昭和45年)11月5日)は、東京の落語家。柳家金語楼の弟で兄は三遊亭金時(三遊亭千馬を名乗ったという説も、本名山下市郎(一郎とも))。本名は山下 喜久雄(やました きくお)。出囃子は『旧桃太郎』。妻の妹は日本舞踊の藤間松枝。実子・勝之は桂小金治門下で桂小竹を名乗って修行していたが廃業後指圧店「モモタロー指圧」を開業した。小学校卒業後、奉公に出たが長続きせず、1926年(大正15年頃)、実兄・柳家金語楼が出演していた寄席に出入りするうちに落語に興味を持ち、4代目蝶花楼馬楽(後の4代目柳家小さん)門下で、柳家小楼を名乗る。1927年(昭和2年)、柳家小ぎくに改名。翌年、柳家小きんで二つ目昇進。20歳のときから新作落語をやるようになり、1932年(昭和7年)3月、昔々亭桃太郎と改名して真打となり、東京落語協会所属となる。その後、初代柳家三語楼門下となり、兄同様に新作落語で売り出す。桃太郎は、新作落語をあえて「モダン笑話」と題し、高座はもちろんレコード吹き込みから戦地慰問と大活躍。当時の首相・東條英機も熱心なファンで、首相官邸に桃太郎一人で呼ばれて落語を演じていた。また喜劇役者としての顔も持ち、兄・金語楼の主演映画には、ほとんど必ず一役貰って出ていた。戦時中は、金語楼主演映画への出演のほか、もっぱら吉本興業の寄席・演芸場や東宝名人会への出演、そして戦地慰問が活躍の場となる。しかし、人気絶頂時の1943年(昭和18年)に召集され、満州へ。終戦後もシベリアに抑留され、1947年(昭和22年)に復員。1952年(昭和27年)に兄・金語楼の友人である5代目古今亭今輔の紹介で日本芸術協会に加入する。当時、すでに人気は後輩の2代目三遊亭歌笑(後の3代目三遊亭金馬)や、それに続く初代林家三平に移っており、昔日の面影はなかった。兄と比べ高く評価されず、今日では桃太郎の存在は忘れられている。戦争の被害を受けた落語家であった。『お好み床』『音楽風呂』『俳句修行』などが得意ネタ。他にも百田 芦生の名で新作・改作を行っており、主な作品には『ジャズ風呂』『落語学校』『新聞記事(上方落語『阿弥陀池』の改作)』などがある。晩年は不遇で、家族とも音信不通。松戸で親子ほど離れた愛人に看取られ、胆のうがんにより千葉県市川市の病院で1970年11月5日に死去した。享年60。墓所は兄と同じ品川本立寺。戒名は「笑覚院昔桃日喜信士」。なお、兄・金語楼は2年後の1972年に亡くなっている。所属は東京落語協会→東宝→無所属→日本芸術協会→無所属 と変遷したが、無所属の期間が長かった。これは落語界で孤立していたことを示す。桃乃はな代(女流)、桃輔(のちの柳家三太楼、現:紙切りの林家今丸の父)、桃次(のちの腹話術の花島三郎)、笑亭桃朗(のちの春風亭扇枝)がいる。著書に『かくし芸のすすめ』(1968年)がある。昔昔亭桃太郎 の項を参照。本名は柳澤 尚心(やなぎさわ たかみ)。

出典:wikipedia

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