打吹城(うつぶきじょう)は、鳥取県倉吉市仲ノ町の打吹山(標高204m)に存在した日本の城。室町時代の伯耆国守護所とされた。南北朝期、または延文年間の築城と伝えられる。伯耆守護・山名時氏の嫡男である山名師義が田内城から守護所を移した。以後、戦国時代まで伯耆守護山名氏による守護所として続く。大永4年(1524年)、出雲国尼子経久による『大永の五月崩れ』で守護山名氏は没落したとされる。ただ、近年の研究では『大永の五月崩れ』の存在自体が疑問視され、否定されている。加えて伯耆山名氏の没落はこの時期ではなく、天文年間ではないかと推定されている。少なくとも当時の一次史料には天文年間の半ばまで伯耆山名氏の存在が確認されている。永禄5年(1562年)夏には南条宗勝が旧領を回復し、打吹城を管轄下に置く。天正年間には毛利氏が入り、南条氏攻めの拠点となった。天正13年(1585年)の羽柴秀吉と毛利氏の和睦の後は、再び羽衣石城主・南条元続の支配下に入る。南条元続は一族の南条備前守(南条信正のことか)、小鴨元清、重臣の山田越中守を置いて、打吹城の守備にあたらせた。また打吹城の近世城郭化が図られ、本格的な城下町が形成され始め、町の名が倉吉と呼ばれるようになったのも、この頃と考えられる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは南条元忠は西軍に属して敗北。戦後改易され、伯耆国は中村一忠が支配するところとなった。中村一忠は米子城を居城とし、打吹城には城番として中村伊豆守を置いた。慶長14年(1609年)、中村一忠は無嗣除封となり、打吹城は江戸幕府の直轄支配地となった。慶長19年(1614年)には安房国の里見忠義が倉吉3万石を与えられるが、これは実質的には配流であり、里見忠義が打吹城に入ることはなかった。元和元年(1615年)の元和一国一城令で打吹城は廃城となり、破却を受ける。元和3年(1617年)に池田光政が因伯32万5千石の領主として鳥取城に入った。その際、鳥取城とその城下町があまりにも手狭であるとして、新城の建設が検討された。打吹城も新城候補地に挙がったが『領国の中央なれど、山奥にて国主鎮座の地にあらず』として取り上げられなかった。池田光政は重臣・伊木忠貞を倉吉に置いて支配させた。寛永9年(1632年)に池田光仲が池田光政と替わって鳥取城に入った。倉吉は荒尾氏(次席家老で、池田輝政の母方に当たる。)による自分手政治の地となり、打吹山麓に陣屋(倉吉陣屋)が置かれて明治維新まで続いた。
出典:wikipedia
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