ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda,ベンガル語:স্বামী বিবেকানন্দ Shami Bibekanondo,本名:ナレーンドラナート・ダッタ(Narendranath Dutta,ベンガル語:নরেন্দ্রনাথ দত্ত Nôrendronath Dhat-tha)1863年1月12日 - 1902年7月4日)はインドの宗教家。ヨーガ指導者。ヨーガとヴェーダーンタ哲学の霊的指導者としてインド及び西側諸国の人々に影響を及ぼした。彼に親しみを持つものは彼を「ナレン」と呼んだ。彼はラーマクリシュナの主要な弟子であり、ラーマクリシュナ僧院とラーマクリシュナ・ミッションの創設者である。彼は師の教えを知性によって体系化し、世界に通じる言葉として発信した。1863年1月12日、ナレーンドラナート・ダッタ(以下ナレーンドラまたはナレン)は、西ベンガル州の州都カルカッタ(以下コルカタ)のシムラー・パッリーというところに、クシャトリヤ階級の貴族の子として生まれた。父はヴィスワナート・ダッタ、母はブヴァネーシュワリー・デーヴィーといい、父の職業は高等裁判所の弁護士だった。彼は幼い頃から、高い知性と優れた記憶力を発揮し、若い頃から瞑想行を行じる。学生時代、彼は様々な種類のゲームや、勉強が得意だった。アマチュア劇団を組織したり、体育の授業ではフェンシング、レスリング、水泳、漕艇、馬術などのスポーツを教わった。その上、器楽や声楽も学んだ。声は美しく、爽やかな弁舌が人々を惹きつけた。彼は、彼の友人のグループのリーダーであった。彼は若い頃から、因習の有効性やカースト制度に基づく差別や宗教に対して疑問を持つ。1879年に、ナレーンドラはより高度な学究のために、コルカタのプレジデンシー・カレッジに入学する。1年後に、彼はコルカタの長老協会研究所(ゼネラル・アッセンブリー・インスティテューション)、のちのスコティッシュ・チャーチ・カレッジで哲学を学ぶ。教科課程の間、彼は西洋論理学やジョン・スチュアート・ミル、スペンサー、ヘーゲルなどの西洋哲学、ヨーロッパ諸国の歴史を勉強した。西洋の学問を学んだ若きナレーンドラの心に、神と神の存在についての不審が芽生え始める。このことは、ケーシャブ・チャンドラ・セーンの導きもあり、当時の重要な宗教組織及び社会改革グループである「ブラフモ・サマージ」に彼を結びつかせた。しかし、サマージの会衆の祈りと信仰的な歌は、神を悟りたいというナレーンドラの熱意を満足させることはなかった。彼は、彼らが神を見たかどうか、ブラフモ・サマージの当時のリーダーであるデベンドラナート・タゴールに尋ねるが、満足な答えを得ることはなかった。その頃彼は、スコティッシュ・チャーチ・カレッジの学長であり英文学教授でもあったハスティーから、ダクシネーシュワル・カーリー寺院のシュリー・ラーマクリシュナについて話を聞く。ナレーンドラは、1881年11月に初めてラーマクリシュナに会う。彼はブラフモ・サマージで質問した内容と同じ質問を、ラーマクリシュナにぶつける。「神を見たかどうか」と。ラーマクリシュナは当意即妙にこう答える、「ええ、私がここで君に会ったちょうどその時、非常に強烈な感覚にただただ圧倒され、私は神を見た」と。ナレーンドラは困惑し、突然このようなことを言うラーマクリシュナを初め狂人ではないかと疑った。しかしラーマクリシュナの言葉が信頼に値し、経験の深さから述べているのを感じることができた。彼は、しばしばラーマクリシュナを訪ね始める。ナレーンドラは、ラーマクリシュナと彼のヴィジョンを受け入れることができなかったけれども、彼を忘れることができなかった。ナレーンドラは人を受け入れる前には徹底的にテストする性格だったため、ラーマクリシュナをも試みた。しかしラーマクリシュナは忍耐強く、寛大で、ユーモラスで、愛に満ちていた。彼は決してナレーンドラに分別を捨てるようには言わなかった。ナレーンドラは納得できないことにはすぐに反論する。ラーマクリシュナの見たカーリーは幻覚に過ぎないのではないかとさえ言った。ラーマクリシュナが「ナレンがひどいことを言う」とカーリーに訴えると、彼女は「いずれ彼も目が開くでしょう」と慰めたという。ある時ナレーンドラはラーマクリシュナが「神は万物に宿る」と言うのを聞いて、壺やコップを叩きまわり、「これも神か、あれも神か」とふざけていた。するとラーマクリシュナはナレーンドラに触れ、神を見せた。世界は神そのものであり、壺もコップも神であるということをナレーンドラは悟ったという。ナレーンドラにとっては偶像崇拝も迷信であるように思え、よく論争をした。ラーマクリシュナはナレーンドラの議論とテストに、忍耐をもって正面からぶつかった。やがて、ナレーンドラは熱烈な支持・賛同をもってラーマクリシュナを受け入れる。ラーマクリシュナは、ナレーンドラに主に二元論と彼の他の弟子へのバクティを教える一方で、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学(不二一元論)を教えた。1884年の初め頃、心臓発作により父が死去。彼の一家は経済的困窮に見舞われる。そのため、一時彼は神への反抗心を滲ませたが、師の激励により鼓舞され改心すると共にこの困難を打開する。ナレーンドラは、ラーマクリシュナの下での5年に及ぶ霊的訓練の後、落ち着きのない、悩み多き性急な若者から、神を悟るために一切を放棄する準備ができた成熟した男性になるまでに成長を遂げた。まもなく、ラーマクリシュナの最期が、喉頭癌という形で1886年8月15日に訪れる。ナレーンドラが23歳のときの出来事であった。その後、ナレーンドラを含むラーマクリシュナ・グループの中心となる弟子達は、僧になって一切を放棄するという誓いを立て、バラーナガルの幽霊が出そうな家に住み始める。彼らは、ラーマクリシュナの弟子で富豪でもある家主によって、食事その他の生活の施しを受けることとなる。1890年7月にヴィヴェーカーナンダは、托鉢生活を始めた。この間、ヴィヴェーカーナンダは、ヴィヴィディシャーナンダ(サンスクリットでは、ヴィヴィディシャーは「知的欲求」を意味し、アーナンダは「至福」を意味する)、サッチダーナンダなどの名で呼ばれる。その頃に、彼の事物への鋭い洞察力のために、ケートリーのマハーラージャによってヴィヴェーカーナンダ(識別する者)の名が授けられたという。このさすらいの日々に、ヴィヴェーカーナンダは貧民の小屋から王の宮殿まで様々な場所に滞在した。彼はインドの様々な人々に親密に接し、異なる宗教の文化と交流した。ヴィヴェーカーナンダはこの旅でインドの荒廃を目に焼き付ける。カースト制度がインドの社会に不平等をもたらしている。更に物質の貧しさが悲惨な状況を作り出しているのに、観念的な教えばかりを説くインド人が多い。ヴィヴェーカーナンダは心の教えだけを説く無益を悟る。社会的実践が必要だ。社会の平等を西洋に学ぶべきだ。西洋は精神的な教えをインドに学ぶべきだという信念が生まれた。1892年12月24日、彼はインド亜大陸の最南端のカンニヤークマリに辿り着く。そこで、彼は海を泳いで渡り、ぽつんと聳え立つ岩の上で瞑想をし始める。彼はそこで3日間、インドの過去、現在、未来について沈思黙考する。その岩は、今でもカンニヤークマリのヴィヴェーカーナンダ記念の岩として残っている。ヴィヴェーカーナンダは、マドラス(現在のチェンナイ)へ行き、インドとヒンドゥー教についての展望を青年たちに話す。彼らは感動して、彼にアメリカのシカゴで開催される世界宗教会議のヒンドゥー教代表として出席するよう懇願する。実は、ヒンドゥー教代表への招待状は、バースカラ・セートゥパティとラームナードのラージャーに対してのものであったが、彼らはヴィヴェーカーナンダを送り出すことを決断する。チェンナイの彼の友人、バースカラ・セートゥパティ、ラームナードのラージャーとケートリーのマハーラージャーらの援助により、ヴィヴェーカーナンダは米国へ渡航することとなった。1893年5月31日(当時30歳)、ペニンシュラー号で、ムンバイを出港し、シンガポール・香港などに寄港し、長崎に着いた。長崎からは、陸路、大坂・京都・東京・横浜に向かい、そこから、エンプレス・オブ・インデイア号で、カナダのバンクーバーへ渡り、7月中旬、ようやく汽車でシカゴに到着した。(ヴィヴェーカーナンダと日本のかかわりについては後節で詳述) 同年9月11日、世界宗教会議第一回集会は始まった。出席者は多かったが、大部分が用意してきた原稿を読み上げるだけであり、聴衆はその形式に退屈していた。ヴィヴェーカーナンダの番が回ってきたが、彼は原稿を何も用意していなかった。「アメリカの兄弟姉妹諸君、汝ら互いに受け入れ、理解し合うべし!」という言葉でヴィヴェーカーナンダが講演を始めると、拍手が会場を包んだ。彼はラーマクリシュナの教えを継承した普遍宗教の理想を語った。演説は大成功を収め、新聞に掲載、ヴィヴェーカーナンダの名声は広まった。ヴィヴェーカーナンダのアメリカにおける伝道は、これが単に東洋の物珍しい教えではなく、西洋人になにか重要なことを伝えているかもしれないという関心を呼び起こす。インドの宗教と哲学への関心が彼によって引き起こされたことが、多くの記述によって確認されている。会議が終わって2、3年の間、彼はニューヨークとロンドンにヴェーダーンタ協会を開設し、主要な大学で講義を行って注目を集めた。彼の成功は、当時の保守的なキリスト教徒や宣教師による激しい批判や論争を巻き起こすこととなる。宗教の融和を主張してもヴィヴェーカーナンダは全てを無制限に受け入れたわけではない。堕落した宗教には容赦がなかった。剣によって物事を成し遂げんとするキリスト教徒、贅沢の傍らで教えを説くキリスト教徒、口先だけの偽善的なキリスト教徒に対し「彼らはキリスト教徒ではない。キリストに帰れ」と批判している。ちなみにヴィヴェーカーナンダは利己心の無さと他人への愛が宗教のテストだと述べている。なお、この外遊の間、ヴィヴェーカーナンダの主要な著書に該当する論文が相次いで完成することとなった。1895年の夏に差し掛かる頃に著作『ラージャ・ヨーガ』が完成、同年12月には『カルマ・ヨーガ』に該当する論文を発表。1896年2月には『バクティ・ヨーガ』をまとめ、同年4月にロンドンにて『ギャーナ・ヨーガ』に相当する講演を行った。4年に及ぶ欧米での外遊と講義ののち、1897年に彼はインドに帰国する。ヴィヴェーカーナンダの支持者たちは彼のインドへの帰国を熱烈な歓迎をもって迎えた。彼は、当時の圧迫されたインド社会の士気を高めるために考案された、「コロンボからアルモラまでの教え」として知られる一連の講義を行った。その後、彼はラーマクリシュナ・ミッションを興す。この機関は現在のインドのヒンドゥー社会における最も大きな教育機関の1つである。しかしながら彼は、西側諸国を外遊したため、西洋文明は穢れたものであると考えている保守的なヒンドゥー教徒らの強い批判を浴びることとなる。彼と同世代の人たちも彼の動機を疑い、彼のヒンドゥー教の伝道活動から得た名声と栄誉が、彼の最初の僧院での誓いを忘れさせたのではないかという疑念を抱いた。彼の米英に対する熱意と祖国への霊的献身は、彼の晩年、大きな葛藤を引き起こした。そんな中、1898年11月に彼の女弟子であるニヴェーディターの女学校が開校、12月にはベールール僧院が建立する。1899年1月から1900年12月にかけて、彼は再度一度欧米を外遊した。ヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナ・ミッションの組織の整備に福祉の実践に加え、布教や修行も平行して行うという多忙な生活に追われた。その忙しさと共に、病が彼の身体を蝕みつつあった。1901年、ヒマラヤのアーシュラムの創設に尽力。1902年7月4日の朝、コルカタの郊外に自身が創設した、ラーマクリシュナ僧院の前身であるベールール僧院にて、講義、散歩、そして弟子への遺言の後、死亡した。ヴィヴェーカーナンダはまず、宗教が様々な教えに分かれているという現実を見つめる。霊性の世界では世界の人々を統一する唯一の教えなど生まれようがない。1つの教典から50年経たないうちに20もの宗派が生まれる。まして教典が違う宗教の間に差異が生じるのは尚更のことだ。ヴィヴェーカーナンダはその違いを認めた上で、積極的に評価する。人が思考する限り、宗派は増え続ける。ならば大いに増えるべきだと。活動を生み出すには2つ以上の力の衝突が必要である。多様は生命の第一の原理であり、全てが同一というのは静止した死の世界だ。問題となるのは自分だけが正しいと思い込み、他の教えを抹殺しようとすることだ。彼は「相手の教えを壊すな」、「低いと思われる教えは引き上げよ」という。彼によれば宗教の教義上の違いは矛盾ではなく、1つの真理に対する異なったアプローチである。それらは違いにより補い合う。1つの教義に真理は収まりきらない。多様な宗教の全体が真理である。真理とは狭量なものではなく、ひたすら広い。それは仏教もキリスト教もイスラム教もヒンドゥー教も全てを含む、彩り豊かな全体としての神の啓示である。特定の時と場所に現れる有限な宗派に囚われず、大いなる視点から諸宗教の協調を目指す普遍宗教の理想は、頑迷な宗派意識への痛烈な批判だった。ヴィヴェーカーナンダは、宗派が争いではなく協調を始めたときに生まれる大きな力に期待を寄せる。人間にとって魂の探求、神の光の探求ほど多くのエネルギーを費やさせたものはないからだ。なぜ宗教がそこまで大きな力を持つのかといえば、無限という理想を宗教が内に宿しているからだという。感覚界のなかで無限という理想を求めても必ず挫折する。例えば無限の感覚的快楽など不可能である。無限という理想は超感覚の世界の中に見出される。ヴィヴェーカーナンダは、あらゆる宗教に共通な要素は感覚の限定を超えようとする努力だという。自然の背後に働く大いなる力を見るのも、先祖の霊魂を崇拝するのも、霊の啓示を受けるのも、悟りを開いて永遠の法則を理解するのも、超感覚的なものに対する関わりだ。宗教の対象は絶対あるいは無限であるがゆえに人間の理性や感覚に収まりきらない。物質に留まることもない。感覚の限定を超え、無限なるものと合一するのが最高の理想なのだと彼は主張する。そして合一のための手段として彼はヨーガを提唱する。活動的、精神分析的、宗教的、哲学的といった様々なタイプの人間が己の性格に合った方法としてとるべきヨーガがある。それぞれカルマ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガと呼ばれる。これらはヴィヴェーカーナンダの独創というわけではなく、『バガヴァッド・ギーター』やヨーガ学派の思想を彼が再編成し、人間の生全体に当てはめたものである。ギャーナ・ヨーガは実在をあるがままに見て普遍なる存在と合一することを目指す。自我とは迷盲であり、神のみが実在であることを知によって理解しようとするのがこの哲学的ヨーガの道である。この道についてのヴィヴェーカーナンダの教えはヴェーダーンタ哲学の不二一元論、つまりシャンカラの思想が中心になっている。ここで説かれるのは全宇宙は単一の存在であり、名と形が様々な違いを造り出しているということだ。永遠に変わることのない完全なブラフマン=アートマンの上にマーヤーという形が波のように生まれる。マーヤーはよく幻と訳されたりするが、幻といっても現実性をもっている。時間、空間、因果律といった形式を持ち、様々に変化する現実がマーヤーである。現実は矛盾に満ちている。善と共に悪が栄え、富む人がいる一方で貧しい人がいる。1つの理想を追えばその反動にあう。マーヤーの中での自由は混沌と堕落をもたらし、感覚的快楽は長くは続かない。そのような限定された現実としてのマーヤーの中で人は自由に向かって旅する。真の自由はマーヤーの中にではなく、マーヤーを支配する実在の中にある。多様な現象の中で働く単一にして絶対なるもの、それこそ実在と呼ぶに相応しい。実在は無限であるがゆえに一切の束縛から自由である。あらゆるものは絶対者から派生したというヴェーダーンタ哲学的見地から見れば、「私」と「彼」、「あれ」と「それ」の区別は無智の産物ということになる。そのような区別はマーヤーの中でのものに過ぎず、あらゆるものは神に帰着することを知るのが究極の知である。神は遠くの天国かどこかにではなく、全てのものの中に、人間の中に、自分の中にいるということがヴェーダーンタ哲学の主張である。ある種の宗教が自分の外にいる人格を持った神を信じない者を無神論者と呼ぶように、ヴィヴェーカーナンダは自分の魂の栄光を信じない者を無神論者と呼ぶ。ギャーナ・ヨーガの目的は全ては神であるという教えを外面だけ研究することではない。内面に分け入って合一を知ることが目的だ。実は「神を知る」という表現は適切とは言えない。人間の知は有限なのだから。究極のところではギャーナヨーガは知を踏み台にしてそれ以上のものに至ろうとする。宗教とは論理を無視するものではなく、論理を尽くして論理を超えようとするものであるとされる。バクティ・ヨーガは神に夢中になることによって小さな「我」を滅し、神と合一することを目指す。これはラーマクリシュナが好んだ道でもある。バクティにも段階がある。初めの準備段階では人は具体的な助けを必要とする。凡人は神の象徴を通してでなければ神を崇拝することはできない。神の象徴とは神話や偶像、マントラなどといったものである。象徴は神そのものではないが重要で、偶像崇拝を否定する宗派は霊性から遠ざかるか、さもなくば偶像の代理を持つとヴィヴェーカーナンダは指摘する。準備段階では霊性の成長を促し、見守ってくれる師(グル)も必要とされる。霊性の師に必要な条件としてヴィヴェーカーナンダは聖典の精神を理解していること、心が清らかなこと、利己的でなく、愛という動機によって働くことを挙げている。象徴や師の助けのもとに魂の浄化が目指されるが、浄化の中で最高のものは放棄である。放棄は最高の愛から生まれる。愛のうち程度の低いものは狂信や執着に堕しうる。それらはかえって憎悪を生む原因となる。低い愛とはつまり「我」が残っていることだとも言える。ヴィヴェーカーナンダは愛の段階を以下のように分けている。友人同士は平等な愛で結ばれる。親は利害を離れて子供のためを思う。恋人は相手のためなら全てを投げ打つ。これは「我」の消えていく段階である。バクティは神への愛であり、神以外のあらゆるもの(我を含む)ではなく、神のみを愛することを理想とする。神のみを愛せよということは、一切が神の顕れであるとする立場からは全てを愛せよということになる。ヴィヴェーカーナンダは愛は神であり、宇宙の原動力だとも述べる。宇宙全体は愛の顕れであり、愛するものと愛されるものという区分は究極的には消滅し、全てが一体となった愛のみが残る。ラージャ・ヨーガは瞑想により心を制御して合一を目指す。『ヨーガ・スートラ』の注釈でラージャ・ヨーガは解説される。『ヨーガ・スートラ』は以下の8つの段階を経て合一に至る道を記している。禁戒とは倫理的な規定で、不殺生、正直、不盗、不淫、無所有を守ることである。それは「~すべからず」という消極的な倫理だが、勧戒になると「~すべし」という積極的な倫理になる。勧戒には心身の清浄、足ることを知る、苦行、読踊、祈りなどが挙げられる。この2つの倫理的段階は心を清めるためのものである。次の坐法では瞑想の際の座り方について扱われる。正しい姿勢を保つことで心も正される。不動で安楽な姿勢が理想であるという。ヨーガ行者が身体を柔らかくするのも、ひとつには正しい姿勢で長時間瞑想できるようになるためである。つぎの調息とは呼吸法である。呼吸は心の状態を反映するから、意識的に呼吸を変えることで心も制御できる。細くて長い呼吸により落ち着きが得られる。つぎの制感とは感覚制御である。外に向いていた感覚を内に向け、内的感覚を養う。次の凝念になると瞑想も本格化する。この段階では意識を凝縮し、一定の場所に強く結び付ける。集中の対象は身体の一部分や宗教的シンボルなど様々である。静慮の段階では意識作用が他の作用に影響されずに一筋に集中する。そしてサマーディ(三昧)において意識作用が消え去り、対象のみが残るのである。対象が残った三昧はサヴィカルパ・サマーディ(有種子三昧)と呼ばれる。最終的な三昧とは対象すら消え去るニルヴィカルパ・サマーディ(無種子三昧)である。ヴィヴェーカーナンダは、ラージャ・ヨーガはインド人ならではの精神科学であり、集中の研究であると述べている。金を儲けるにも、神を礼拝するにも、何をするにも、集中の力が強ければ強いほど物事はよくできる。これが自然の門戸を開かせ、光の洪水を溢れ出させる鍵であり、知識の宝庫の鍵である。カルマは業、または行為と訳される。人が行う全ての働き、肉体の1つ1つの動き、それぞれの思いは心の実質の上に印象を残し、それが表面に現れずとも下層において潜在意識として働くだけの力を持つようになる。各瞬間における人間の存在は、心に刻まれたこれらの印象の総計によって決まる。これはつまり行為が人間の存在を決めるという考えである。カルマヨーガは行為の結果から自由な無執着により合一を目指す。カルマ・ヨーガは「倫理的ヨーガ」と訳されたりもする。行為の問題を扱うのだから倫理が関係してくるのは当然だが、善を最終目的とする倫理ではない。人間が多少の善行をしたところで世から悪が消えてなくなるわけではない。良かれと思ってしたことでも、観点を変えれば悪になることもある。あらゆる働きは善と悪の混合であり、どちらか一方だけの行為などあるものではない。そもそも生きること自体、他の生物の犠牲の上に成り立っている。カルマ・ヨーガではそういった事実を認め、善と悪が混在する世界は霊的訓練の場所であるとする。ヴィヴェーカーナンダは人の魂の中には知も愛も力も一切があるという。魂に打撃を与えて心の覆いを取り除き、結果をとりだすのがカルマである。その際、外部世界はヒントにすぎない。快楽の追求が人の目的とされがちだが、その反対の苦痛も人の教師になる大事なものである。快と苦が人の性格を形成し、その形成にはカルマが能動的に関わる。注目すべきカルマは大きく目立った善行ではなく、小さくとも日常的な習慣のようなカルマであり、そのような小さな積み重ねにより性格が形作られる。だからこそ日常的な仕事が重要になってくる。仕事は知や力を呼び起こす打撃だとヴィヴェーカーナンダは説く。このとき何が善行なのかはあまり重視されない。善は立場や文化によって様々な相対的なものだ。人それぞれが自分の置かれた立場にあってその義務を果たすことが偉大だとされる。同一の理想によって人を評価してはならない(例えば富を稼ぎ社会の支えになることを義務とする家住者は、出家者を浮浪者と見るべきではない)。各々自身にとっての最高の理想に従えるよう手助けせよとヴィヴェーカーナンダは主張する。これは普遍宗教の理想と共通している。そんな様々な立場を貫くカルマ・ヨーガの共通の理想は、利己的な動機を離れた無私の働きである。利己心は執着を、執着は不幸を呼ぶ。利己的な働きは欲望の束縛を受けた奴隷の働きである。カルマ・ヨーガの働きは執着から自由な主人の働きである。カルマ・ヨーガの行者は報いを求めず、慈愛から行動する。報いを求めない故に彼は行為の結果から自由である。善も悪も行為の結果に過ぎない。彼は善、悪を超えた無執着を目指す。カルマヨーガの行者は日常の働きで真理を得るため、高名な宗教家とはなりにくい。しかし知によって真理を得たブッダ、愛により真理を得たキリストと同じように偉大だとヴィヴェーカーナンダは言う。最も平凡な生活の中に偉大なものがいるとするこの教えは民衆に目を向ける社会的実践とも関係する。ヴィヴェーカーナンダは霊の教えこそ最高のものだと主張して止まないが、現実世界で生きる力をそれ以上に強調することがある。何も行動に移さず、ただ言葉を繰り返すだけの観念的な教えや、信じて待つだけの受動的態度を彼は退ける。まず、強くなければならない。彼は「ヴェーダの研究をするよりもフットボールで身体を鍛える方が有益だ」とすら言う。悪をなさないことが善なのではない。悪をもなしうる力を持ちながらも悪を克服することが真の善だという。弱点を気にせず、失敗を恐れず理想の実現に努めよという教えはカルマ・ヨーガとも結びつく。万物は神の現われだというギャーナ・ヨーガ、神を愛するバクティ・ヨーガも実践と結びつく。集中によって行為の成果を高めるラージャ・ヨーガにしても同様である。知と愛と集中と行為は密接に結びついている。実践の対象として取り上げられるのは社会的下層の人々である。ラーマクリシュナの「神を求めるのならば人間の中に求めよ」という教えを受け継いだヴィヴェーカーナンダは、神は全てのものの中にあるが、人の中に最もよく現れているとする。神を愛することは人を愛することである。自分の心の平和を求める前に他人への奉仕を優先しなければならない。精神の平和はそれから生まれる。ヴィヴェーカーナンダによれば、奉仕する者は奉仕を受ける者より偉いのではない。奉仕する者はむしろ清めの機会を与えてくれた相手に感謝しなくてはならない。彼自身も大いなる実践家であり、多大な社会的業績を上げた人物だった。霊性の才能、知的才能、社会で成功する行動力に恵まれたこの人物がラーマクリシュナという稀有な神秘思想家に直接出会って精神を引き継いだと言える。1893年から4年にわたる外遊から帰国した直後の1897年2月、マドラスの新聞のインタビューの中で、次のように日本を高く評価している。 1.日本人は国のためにすべてを犠牲にするほど愛国心が高い。 2.清浄な芸術を持っている。 3.日本の仏教(大乗仏教)は、セイロン(現スリランカ)のような上座部仏教とは異なり、ヴェーダーンタと同じ、有神論的・積極的な仏教である。 4.日本は、その精神を残しながら、西洋の知識をよく消化している。 5.日本人は米飯と味噌汁を適量食べている。 6.インドの若者はイギリスでなく、日本に留学した方が良い。
出典:wikipedia
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