ダリル・スペンサー(Daryl Dean Spencer , 1929年7月13日 - )は、アメリカ合衆国カンザス州出身の元プロ野球選手(内野手)・プロ野球指導者。ドクター・ベースボールと呼ばれるほど尊敬された人物。にニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)でメジャーデビュー。以後はにセントルイス・カージナルス、シーズン途中にロサンゼルス・ドジャース、シーズン途中にシンシナティ・レッズと渡り歩く。に阪急ブレーブスに入団し来日。長池徳士とともに阪急の主砲として活躍した。7月16日、サイクル安打を達成。阪急入団後初めて記録した三塁打がこの記録に結び付いた。尚、日本では当時サイクル安打という概念は無く、スペンサーはサイクル安打を達成した際、自ら記者に「なぜ自分に質問をしてこないのか。これはサイクル安打といって、とんでもない記録なんだよ」と言ったという。また1965年には打撃好調で、当時パシフィック・リーグ最強打者として君臨していた野村克也(南海)と激しい三冠王争いをしていた。しかし、当時は他チームであろうと外国人選手にタイトルを取らせたくないという風潮があり、特に8月14日から8月15日にかけてはタイトル争いとは無関係の東京オリオンズ投手陣により8打席連続で歩かされた。8月15日のダブルヘッダー第1試合の先発は「精密機械」の異名をとる大投手小山正明であったが、スペンサーに対しては4打席全てでストレートの四球であった。第2試合も2打席連続四球で、しびれを切らしたスペンサーは次の打席で敬遠球を無理矢理打ち、連続四球は8打席で終わった。この8打席連続四球は当時の日本記録である。また、10月3日には野村克也率いる南海と対戦。このときスペンサーはバットのグリップとヘッドを逆さまに構えて打席に立つという抗議行動に出た。しかし南海は、その打席でもスペンサーを敬遠した。シーズン残り2週間というところで交通事故に巻き込まれて左足を骨折し、欠場を余儀なくされた。スペンサーは最高出塁率のタイトルを獲得したものの、野村の.320、42本塁打、110打点には届かず戦後初の三冠王を許す結果となった。来日4年目の、38歳となったスペンサーはなお30本塁打を放ち阪急のパ・リーグ初制覇の原動力となった。実はこの年の開幕前、阪急西宮球場のラッキーゾーンが3m前方に移設されていた。に退団したが、に選手兼コーチとして復帰。に再び退団する。この頃にしていた「スペンサーメモ」は、後に阪急に影響を与えた。青田昇は「ナンバーワンの外国人はスペンサー」と語っている。スペンサーは投手のクセや捕手のクセを見抜く眼力が長けていたという。またスペンサーの弟子である高井保弘によるとスペンサーは投手が投げるたびにメモを取っていたといい、それから自分も投手のクセを盗むようになったという。野村克也は「日本のプロ野球を変えたのはスペンサーとブレイザー」と口癖のように言うという。伊東一雄の愛称「パンチョ」の名付け親である。メジャーリーグ時代にワイルドランナーとして知られており、日本でも危険な走塁を何度か試みている。2012年にドジャー・スタジアムの50周年の記念式典に出席した。そのセレモニーの終了後に取材を受け、50年前の思い出、日本の思い出について語っている。日本の野球殿堂入りを話をずっと待っているという。二宮清純はスペンサーについてブレイザーとともに殿堂入りの価値がある旨を語っている。
出典:wikipedia
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