立松 和平(たてまつ わへい、1947年12月15日 - 2010年2月8日)は日本の小説家である。日本ペンクラブ会員。本名:横松 和夫(よこまつ ・かずお)。筆名は本名の「横松」のもじりで「立松」にした。栃木県宇都宮市生まれ。栃木県立宇都宮高等学校卒業後、早稲田大学政治経済学部へ進学。1966年大学入学時は学生運動で騒然としていた。早稲田キャンパス新聞会に入会するが政治的対立のため、除名。文章表現研究会に入会し、現代文学に親しむ。また日本各地や沖縄、韓国、東南アジアなどを流浪する。また、大学にもどるとデモに参加していた。那覇のナイトクラブでバイトした経験を処女作「途方にくれて」として執筆し、雑誌『早稲田文学』に投稿。当時、「早稲田文学」の編集長だった有馬頼義が主宰する若手作家のサロン「石の会」に参加し三浦哲郎、高井有一、後藤明生、色川武大らと知り合う。1970年、集英社の内定を得ていたが『早稲田文学』に「途方にくれて」が掲載されたため就職せず留年。「自転車」で第1回早稲田文学新人賞を受賞する。翌1971年、結婚。妻は『早稲田文学』編集部に勤務していて和平と知り合った。流浪の生活が2年間続く。土木作業員、運転手、魚市場の荷役、病院の看護助手など職を転々。この頃、伝説的な新宿の喫茶店「風月堂」で中上健次と出会う。1972年には妊娠した妻を実家に帰し、3ヶ月のインド旅行に出かける。同年、テレビ・ディレクターだった田原総一朗が1969年に企画した山下洋輔がバリケードの中でピアノを演奏したイベントを「今も時だ」として小説化。新潮新人賞候補となり、商業誌デビュー。1973年、経済的理由から帰郷し宇都宮市役所に就職。栃木を題材にした小説を書き続ける。1979年退職し、文筆活動に専念。同年に発表した「閉じる家」「村雨」2度、芥川賞候補となる。1980年、『遠雷』で野間文芸新人賞を受賞。1981年にはATGにより『遠雷』が映画化される。1984年、宇都宮の家にある本を全部売り払い東京に移住。取材でレバノンを訪れる。福島泰樹に薦められて、ボクシングを始める。ボクシング体験は著書『ボクシングは人生の御飯です』にまとめている。また映画『蜜月』(1984年)では脚本を担当。1985年には、香港-北京ラリーにナビゲーターとして参加。『地上の翼 香港-北京ラリー優勝記』に執筆。1989年12月 ~ 1990年1月には写真家・小川義文がチーム監督をつとめたチームによる、パリ・ダカールラリーに1号車ナビゲーターとして出場。『パリ・ダカ 砂の水平線』に執筆。1986年からテレビ番組『ニュースステーション』のコーナー「こころと感動の旅」に出演し、その独特のトークで注目される。その旅の内容は『雲を友として こころと感動の旅』にまとめている。1993年の『光の雨』で「盗作事件」を起こし、社会問題となる。事件以後、テレビ出演等が急減した。1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。1997年、『毒 - 風聞・田中正造』で毎日出版文化賞受賞。2002年3月、歌舞伎座上演『道元の月』の台本を手がけ第31回大谷竹次郎賞受賞。2007年、『道元禅師』で第35回泉鏡花文学賞受賞。行動派作家として知られ自然環境保護問題にも積極的に取り組み、徳島県で川の学校の講師を務めたこともある。小説のほか紀行文、絵本、戯曲、など純文学作家としては異例なほど著書が多い。また近年は仏教への関心を深めており(インドへの関心は若い頃からのもの)、その方面のエッセイ類も多数ある。2010年2月8日、東京都内の病院にて多臓器不全で死去。1月には体調を崩して入院していた。大法輪連載中だった『良寛』と、書き下ろしの小説『白い河 風聞・田中正造』が未完の絶筆となった。連合赤軍を題材にして1993年8月号から雑誌『すばる』(集英社)で連載を開始した『光の雨』について、元連合赤軍メンバーの坂口弘(獄中)から自著の『あさま山荘1972』と酷似しており「盗作」であると抗議された。和平は「盗作」を認め、同年10月号で連載は休止となった。それまでタレントのように活動していた和平は、テレビ出演を自粛し関係者へ謝罪に回らざるを得なくなった。その後『光の雨』は物語や構成を変えて1998年3、4、5月に雑誌『新潮』(新潮社)で連載し新潮社より単行本が刊行された。この作品は同名のタイトルで高橋伴明監督により映画化され、2001年12月に劇場公開された。2008年6月、新潮社より刊行された長編『二荒』が『光の雨』同様、参考文献として挙げていた別の人物から「作品中に自著(福田和美、日光鱒釣紳士物語)からの引用がある」との抗議を受け絶版となり2度目の「盗作事件」と報道された。その後、再構成や再修正を経て勉誠出版より『日光』と書名を変更し出版された。立松による取材を拒否したにもかかわらず内部資料を無断で持ち出され、それを元にした立松のエッセー中に実名で登場させられてプライバシー暴露の被害に遭い、ショックのあまり体調を崩したという人物の存在が指摘されている。この事件に関連し、1993年から1994年にかけて「週刊金曜日」誌上において、立松と被害者側の論争が展開された。『ニュースステーション』などのテレビ番組に出演した際は方言を交えて喋っていたが、実際には標準語を普通に話すことができた。友人の高橋三千綱に対して、立松は「テレビに出るときにはわざとああいう話し方するんだ。おれは三千綱と違って何か工夫しないと仕事こねぇから」と説明している。妻は小山内薫の孫。長女の山中桃子(横松桃子、1977年 - )はイラストレーター・絵本画家で、和平の著書に多くの挿絵を描いている。俳優山中聡は桃子の夫。また長男の心平(1972年 - )は林心平の名で文筆活動を始めている。遠戚に藤田嗣治、児玉源太郎らがいる。
出典:wikipedia
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