プーシキン美術館(正式名称:国立A.S.プーシキン造形美術館、', ')は、ロシア、モスクワにある美術館。モスクワの救世主ハリストス大聖堂の北、ヴォルホンカ通りをはさんだ場所にあり、ヨーロッパ最大の美術館であり、収蔵品の数は約10万点でエルミタージュ美術館に次ぐ世界2位。モスクワ大学芸術学部の学部長であったイワン・ウラジーミロヴィッチ・ツヴェターエフ教授(1847年 - 1913年、女性詩人マリーナ・ツヴェターエワの父)は、かねてからモスクワに公共美術館を設立することを提唱していた。ツヴェターエフは、モスクワ大学付属美術研究所を核として、大富豪のユーリ・ネチャーエフ=マリツェフと建築家のロマン・クレインにロシア帝国の首都であるモスクワに美術館を作る必要性を説き、彼らの支援を引き出すことに成功した。さらにツヴェターエフは、時の皇帝アレクサンドル3世の支持も取り付けることに成功し、皇帝は美術館建設のコンペを支持した。このコンペではクレインの新古典主義による建築案が1等となった。モスクワ市議会の議決によって、モスクワ大学に無償で土地が譲渡された。建設に当たっては、ユーリ・ネチャーエフ=マリツェフをはじめ、マーモントフ、モロゾフ、シェラプーチン、ユスポフ、シェフテリなどの献金により、1898年定礎。美術館は、コンペで1等であったクラインが本設計を行ったが、ウラジーミル・シューホフ がガラス張りのキャンティレバー(片持ち梁)と暖房システムを、ジョルトフスキーが正面玄関を、バルヒーンが内装など部分的設計を分担している。1912年5月にアレクサンドル3世芸術博物館として開設を見た。最初の展示品は、ヨーロッパ諸国の彫刻や古代エジプトの遺物のレプリカ、イタリア、オランダ、フランスの絵画、古銭や古代の陶器などであった。ウラジーミル・ゴレニシュチェフによって、モスクワ数学古文書 やなどの考古資料が寄贈されている。帝政期を通じて美術館はモスクワ大学の付属美術館として、美術専攻の学生の学問・調査・研究の場として機能した。ロシア革命後、美術館の名称はモスクワ美術館を経て、1937年モスクワ出身の国民的詩人アレクサンドル・プーシキンの没後100周年を記念して、プーシキンの名称を冠してA.S.プーシキン国立造形美術館へ変更された。1918年ペトログラード(サンクトペテルブルク)からモスクワへの遷都が決定された後、ソビエト政権はエルミタージュ美術館から所蔵品の移転を決定した。これらの絵画は現在のプーシキン美術館のコレクションの中核をなしている。これにより、版画部と西欧絵画部が設立された。さらに重要だったのは、1948年にモスクワの国立西欧美術館から世界的に名高い絵画コレクションが移されたことである。このコレクションは、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、アンリ・マティス、パブロ・ピカソなどの印象派とポスト印象派の作品から構成されていた。1981年から毎年冬にスヴャトスラフ・リヒテルの提案でプーシキン美術館を会場に室内楽中心の音楽祭「12月の夕べ」が開催されている。プーシキン美術館は、13世紀から現代まで各派の西欧絵画を所蔵する。特にフランスを中心とする印象派およびポスト印象派のコレクションは世界的に知られている。このほか、ビザンチンのイコンも多数所蔵している。考古学資料も豊富でエジプト、メソポタミア、ペルシアの出土品を多数所蔵している。第二次世界大戦でドイツ、ドレスデンのツヴィンガー宮殿所蔵の美術品を略奪し、10年間にわたりコレクションとしていた。これらドレスデンのコレクションは、最終的には東ドイツに返還された。2011年4月より「プーシキン美術館展 フランス絵画300年」が横浜、名古屋、神戸の3会場で開催予定であったが、東日本大震災の影響で中止となった。2013年、当初と同じ以下3会場での開催が決定した。1996年に「モスクワ プーシキン美術館名作展 室内への視線」が、静岡県立美術館、岐阜県美術館、和歌山県立美術館、福井県立美術館で開催された。
出典:wikipedia
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