アルティメット・ウォリアー(The Ultimate Warrior)ことジム・ヘルウィッグ(Jim Hellwig、1959年6月16日 - 2014年4月8日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。インディアナ州クローフォーズビル出身。1980年代後半から1990年代前半におけるWWFの看板スターの1人。屈強な肉体から超合金戦士の異名を持つ。レスリング技術の評価は低いものの、わずか数分で試合を決着させる力押し一辺倒のファイトスタイルなど、その徹頭徹尾「躁状態」のキャラクター人気は高かった。パワーチームUSAなるボディビルのチームに所属後、1985年にプロレス転向。同年11月、チームメイトだったスティーブ・ボーデンと組み、テネシー州メンフィスのCWA(後のUSWA)にて、フリーダム・ファイターズ("The Freedom Fighters")なるタッグチームとしてデビュー。ボーデンはフラッシュ("Flash")、ヘルウィッグはジャスティス("Justice")を名乗り、ジェリー・ローラー&オースチン・アイドルが保持していたAWA南部タッグ王座にも挑戦した。1986年3月、ビル・ワットが主宰していたUWFにてチーム名をブレード・ランナーズ(")へと変更、それぞれのリングネームもボーデンはスティング("Sting")、自身はロック("Rock")と改名し、ロード・ウォリアーズのコピー版タッグチームとして活動。エディ・ギルバートをマネージャーに、テッド・デビアス&スティーブ・ウィリアムスやファビュラス・フリーバーズ(テリー・ゴディ&バディ・ロバーツ)などのチームと対戦した。チーム解散後の1986年6月、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス州ダラスのWCWA(World Class Wrestling Association)にて、フェイスペイントを施したディンゴ・ウォリアー("The Dingo Warrior")に変身。当初はヒールのポジションで、バズ・ソイヤー&マット・ボーンのマネージャーだったゲーリー・ハートのボディーガードとして登場。アブドーラ・ザ・ブッチャーのパートナーにも起用され、ブルーザー・ブロディとも対戦した。同年10月よりベビーフェイスに転向してフォン・エリック・ファミリーと共闘。11月17日にはランス・フォン・エリックと組んでマット・ボーン&ジョージ・ウェルズからWCWA世界タッグ王座を奪取し、1987年2月2日にはボブ・ブラッドリーを破りWCWAテキサス・ヘビー級王座を獲得した。1987年6月、WWFと契約を交わし入団(同時期、当時WCWAと提携していた新日本プロレスへの初来日が内定していたが、WWF入りのため急遽キャンセルされている)。10月7日収録のWWFスーパースターズにてリングネームをアルティメット・ウォリアー("The Ultimate Warrior")と改名し、テリー・ギッブスに勝利。以降、TVテーピング番組の前座試合でホセ・エストラーダやマイク・シャープなどベテランのジョバーと対戦して経験を積む。1988年8月29日、サマースラム1988にてホンキー・トンク・マンからインターコンチネンタル・ヘビー級王座を奪取。1989年4月2日、レッスルマニアVにてリック・ルードに王座を奪われるが8月29日のサマースラム1989で奪還。1990年4月1日、レッスルマニアVIではハルク・ホーガンとのWWF世界王座&インターコンチネンタル王座のダブルタイトルマッチに勝利し、2冠王者となる。同月13日には日本の東京ドームにて行われたWWF、新日本プロレス、全日本プロレスが合同して行った日米レスリングサミットに参戦すると共に初来日を果たす。WWF世界王者としてテッド・デビアスの挑戦を受けて防衛。8月27日のサマースラム1990ではルードとスティール・ケージ・マッチを行い勝利。1991年1月19日、ロイヤルランブル1991でサージェント・スローターに敗れて王座転落。王座転落後はジ・アンダーテイカーと抗争を展開するが8月に契約の金銭面で折り合わずWWFから解雇される。1992年4月、WWFに復帰。パパ・シャンゴやカマラといった怪奇系レスラーとの抗争やWCWより移籍してきたリック・フレアーとの試合、ランディ・サベージとのアルティメット・マニアックス("The Ultimate Maniacs")なるタッグでテッド・デビアス&IRSのマネー・インコーポレーテッドと対戦するなどストーリーラインで活躍するも、WWFを襲ったステロイド疑惑の影響で11月に再び解雇となる。1993年、WWF出身のレスラーが集うWWS(World Wrestlings Superstars)に参戦し、ハーキュリーズと連戦。1995年にはNWC(National Wrestling Conference)にてホンキー・トンク・マンと対戦した。1996年3月31日、レッスルマニアXIIにてWWFに電撃復帰を果たしてハンター・ハースト・ヘルムスリーに勝利。復帰後はオーエン・ハートやベイダーと抗争を展開するが、オーナーのビンス・マクマホンと対立して退団した。1998年、WCWと契約を交わし、ザ・ウォリアー("The Warrior")のリングネームで入団。8月17日のナイトロにてリングを占拠するnWoとハルク・ホーガンのマイクパフォーマンス中に登場してリングへ入り、ホーガン率いるnWoを壊滅することを宣言して去った。9月13日、WCWデビューマッチとなるFall Brawl 1998にて、チームWCWの一員としてダイヤモンド・ダラス・ペイジ&ロディ・パイパーと組み、nWoハリウッド(ホーガン&ブレット・ハート&スティービー・レイ)およびnWoウルフパック(ケビン・ナッシュ&レックス・ルガー&スティング)と3way9人タッグマッチを行い勝利した。9月14日、nWoメンバーのディサイプル対ジム・ナイドハートの試合において、ナイドハートの入場後にリング内へスモークと共に登場し、ディサイプルの髪を掴んだ姿を現す。リングを取り囲むnWoを余所に、ホーガンと直接対決する旨を伝え挑発すると、再びスモークが焚かれ姿を消した。10月12日のナイトロでは旧友スティングとタッグを組み、ホーガン&ブレット・ハートと対戦するも反則によりDQ勝利。10月25日、Halloween Havoc 1998にてホーガンと直接対決を行うも、介入したエリック・ビショフがレフェリーの気を逸らすうちにホーガンの甥のホーレス・ホーガンに椅子で殴打され、そのままフォールを取られて敗退した。1999年にWCWを離脱。一時期は公の場にまったく姿を見せなかったため、「ステロイド剤の過剰摂取の後遺症で脚を切断した」などの噂や廃人説、果ては死亡説まで流れたこともあった。近年は政治団体に所属して講演活動を行い、WWEのステロイド剤の使用にも苦言を呈していた。2005年にはWWEからトリビュートDVDが発売されたが、本人の登場は過去の映像のみで新規のインタビュー出演などは一切なく、内容も彼の人格を非難するようなコメントが多く含まれており、WWEとの関係は冷え切っていると見られていた。2008年にはイタリアのプロレス団体NWEに参戦。6月25日、オーランド・ジョーダンを破り第5代NWE世界ヘビー級チャンピオンとなるがすぐにタイトルを返上した。試合のスタイル、コスチューム、メイク、パフォーマンスは全盛時と変わらず、WWF、WCW時代と比較して肉体もほとんど衰えていなかった。WWEとの関係も修復され、2013年に2Kから発売されるWWEを題材にしたゲーム「WWE 2K14」の宣伝トレイラーにWWF在籍当時のフェイスペイントで出演。2014年1月13日、WWE殿堂入りが発表された。レッスルマニアXXXの前日である4月5日、ルイジアナ州のスムージーキング・センターにてセレモニーが行われ、WWE殿堂に迎えられた。レッスルマニアXXX翌日の4月7日にはRAWへ登場し、殿堂入りしたことに触れるとともに「アルティメット・ウォリアーをつくったのはファンの皆だ」とファンへの感謝の気持ちを表した。今後の動向にも注目されていたが、RAW翌日の4月8日夕刻、ルイジアナ州のホテルの外で倒れているところを発見され、間もなく死亡が確認された。捜査当局の検死の結果、死亡原因は動脈硬化症に伴う心臓発作で、妻とともにホテルの周りを散歩中に、心臓発作に襲われたという。54歳没。前日のRAWで元気な姿を見せながらも、妻と娘2人を遺しての突然の死は関係者にも大きな衝撃を与え、ビンス・マクマホンらWWEの要職・スーパースター等が各種メディアで弔意を表すとともに、その功績を讃えた。ウォリアーの試合はワンパターンで以下のような流れがほとんどである。背中にボディ・プレスを行なうのは従来のボディ・プレスをリック・ルードに膝を立てて返されたためである。
出典:wikipedia
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