金崎 夢生(かなざき むう、1989年2月16日 - )は、三重県津市出身のサッカー選手。Jリーグ・鹿島アントラーズ所属。元日本代表。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。三重県津市安濃町に生まれる。歴史好きであった母親がムー大陸に因んで「夢生」と名付けた。小学校2年生からフットサルを始め、5年生時には全日本少年フットサル大会で3位に入賞するなど、全国的に知られた選手であった。サッカーを始めたのは中学校入学後、3年生時には県大会で3位に入賞した。卒業後は滝川第二高等学校へ進学。高円宮杯全日本ユースサッカー選手権大会では2年生時に3位、3年生時に優勝の成績をおさめた。同期に橘章斗がいる。2007年、大分トリニータに加入。加入直後の2007年から中盤の全てをこなせる万能型ミッドフィールダーとして期待されていたが、中盤のレギュラーに割って入ることができずポジション獲得はならなかった。しかし、「スーパーサブ」として重用され、新人ながら18試合に出場した。11月には香川真司の代役としてU-18日本代表にも選出され、攻撃陣を牽引した。2008年には梅崎司が移籍したものの、家長昭博がレンタル移籍で加入し、レギュラーポジションの獲得は厳しいものと思われた。しかし、練習の最中に家長が全治6か月の重傷を負い、その代役としてトップ下のポジションを確保し、リーグ戦全試合に出場した。11月のAFC U-19選手権への日本代表選出も予定されていたが、チーム事情からナビスコカップ決勝優先の判断がされたため選出はされなかった。ナビスコカップではチームを優勝に導き、金崎自身もニューヒーロー賞を獲得した。リーグ戦もチーム最高の4位で終え、これらの活躍を評価されて複数の移籍オファーを受けたが、大分残留を決めた。2009年は開幕前に復帰した家長とレギュラー争いを繰り広げたが、開幕スタメンを勝ち取った。しかし、チームはリーグ戦14連敗を喫する不振に陥りJ2に降格した。金崎はリーグ戦30試合に出場したものの1得点に留まった。J2降格が決定したことに加えてチームが深刻な経営難にあることが発覚し、経営改善のために主力選手の放出に踏み切り、金崎も移籍することを選択した。国内5クラブからオファーを受け、その中から前年もオファーを送っていた名古屋グランパスエイトを選択、12月16日、両チームから完全移籍が発表された。2010年、背番号は大分でルーキーシーズンにつけていた25に決まった。4-3-3の右ウィングで起用され、開幕戦から得点に絡む活躍を見せた。2012年に名古屋を契約満了で退団。2013年1月30日、大分時代のチームメイトである清武弘嗣が所属するドイツ・ブンデスリーガの1.FCニュルンベルクと1年半契約を結んだ。ニュルンベルクでの登録名はムウ。しかし、移籍1年目は出場機会に恵まれなかった。2013年6月16日、国立競技場で開催された東日本大震災復興支援 2013Jリーグスペシャルマッチにゲストプレイヤーとして出場し、決勝点を決めた。2013年9月2日、ニュルンベルクとの契約を解除し、セグンダ・リーガ(ポルトガル2部)のポルティモネンセSCへ移籍。2013-2014シーズンのセグンダ・リーガで7得点を記録した。2015年2月9日、鹿島アントラーズへ期限付き移籍した。3月14日のJ1第2節・湘南戦で3年ぶりの復帰ゴールを挙げた。4月3日のJ1第4節・鳥栖戦にて、相手DFの金敏赫に顔面をスパイクで踏みつけられる惨事にあう が、金崎に大事にはいたらなかった。後日、4月9日に鹿島のクラブハウスに訪れた金の謝罪をトニーニョ・セレーゾ監督とともに受け入れた。同チームの石井正忠監督就任後は1トップでも2トップでもFWとしての起用が多くなっている。10月31日、ナビスコカップ決勝のG大阪戦では2トップの一角に入り、1得点を挙げるなどのプレーで優勝に貢献した。12月21日のJリーグアウォーズでJリーグベストイレブンを初受賞した。鹿島からは慰留を受けていたが、強い欧州志向からこれを拒否。2016年1月14日、期限付き満了に伴い鹿島からポルティモネンセSCへ復帰する事が決定し、背番号96を着けて試合にも出場した。ポルティモネンセから欧州クラブへの移籍を模索したが自身が納得できるオファーが届かなかったことから、鹿島アントラーズの再オファーに応じ、2月12日に同クラブへの完全移籍で基本合意したことを発表。僅か1カ月でJリーグに復帰することになった。復帰後もチームの主力としてプレーし、6月14日には5月の月間MVPを受賞するなどの活躍をしたが、8月20日の湘南戦で、途中交代させられた事に激昂し、石井監督との握手を拒否するなど反抗的な態度をとった。翌日、クラブから呼ばれ厳重注意を受け、監督、選手に謝罪した。騒動後の公式戦ではなかなか得点が奪えなかったが、9月25日のJ1 2nd第13節の新潟戦で、自身初のリーグ戦2桁得点を達成した。2009年1月20日、AFCアジアカップ2011予選のイエメン代表戦で後半42分に香川真司と交代で初出場。2015年11月5日、約5年ぶりに選出。代表通算6試合目となる同月12日の2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選のシンガポール戦にて、1トップ(センターFW)の位置でスタメン起用されフル出場し、代表初得点を決めた。2016年3月24日には同予選・アフガニスタン戦で、高校の先輩である岡崎慎司との初のアベック弾を決めた。しかし、8月25日に発表された同最終予選のUAE戦とタイ戦のメンバーにおいて、前述の8月20日の試合で取った行為について代表監督のヴァヒド・ハリルホジッチが「彼の態度が受け入れがたい」と問題視し、代表メンバーから外された。万能型ストライカー。元々中盤の選手だけにフットサル仕込みの技術に優れていたが、180cm・70kgの体格にはトップを務める完璧な能力が備わっており、FWとしての才能が開花した。相手チームのセンターバックとバトルを繰り返し、体を張ったポストプレーでボールを収め、最終ラインの裏へ泥臭く抜け出す。貪欲なまでにゴールを狙う強靱なメンタルでチームを鼓舞し牽引。2015年のリーグ戦でチーム2位の9ゴール、ナビスコ杯では5試合5ゴールを量産し、金崎は所属の鹿島アントラーズで絶対的な存在となった。前述のナビスコ杯決勝でのヘディングでの得点や、11月12日のW杯アジア2次予選・対シンガポール戦で左足ボレーでゴール右上隅に決めるという難度の高いゴールだけでなく、力強いドリブル突破から左足ミドル、長谷部誠の右クロスに右足ボレーで合わせるなど頭、左右両足距離を問わず積極的にゴールを狙う様々なシュートパターンを持つ。大分時代チームメイトだった日本代表GK西川周作は「縦に速くパワーもありキープ力もある」と評した。日本代表のヴァヒド・ハリルホジッチ監督も金崎を「真ん中だけでなく、たくさんのところに動いてくれる。体の大きさはそこまでないが、デュエルの中でボールをプロテクトしながらスピードも使えるし、戦う意識もある。ヘディングもうまい」と評価している178||25||27||8||13||4||218||374||0||colspan=2|-||0||0||4||049||16||4||1||4||0||57||17231||41||31||9||17||4||279||54その他の国内公式戦|2011||rowspan=2|名古屋||rowspan=2|25||4||3!通算!!colspan="2"|AFCその他の国際公式戦|-!通算
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。