本法寺(ほんぽうじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は叡昌山。塔頭が三院ある(尊陽院、教行院、教蔵院)。法華行者として、強い信念をもつ日親は、1439年(永享11年)足利義教の屋敷へ赴き、庭中へ直訴し諌暁を図る。足利義教に「世の中が乱れているのは法華経を信仰していないから」と説いたのである。驚いた幕府は諌暁を禁止する。それでも日親は諦めることなく、身命を賭けた諌暁書「立正治国論」を著したため怒りに触れ、寺を焼かれ投獄される。1441年(嘉吉元年)赤松満祐の謀反で足利義教が暗殺されたことで日親は赦免される。赦免後、獄中で知り合った本阿弥清信の帰依を受け、後に本阿弥家の菩提寺となる。1463年(寛正3年)地蔵ヶ原にて、焼いた鍋を頭に被せる酷刑を受け、後に「鍋かぶり日親」と称されている。桃山時代の絵師長谷川等伯は本法寺10世・日通と交友があり、塔頭教行院を宿としていた。このため、当寺には等伯の作品やゆかりの品が多数伝来している。現住は96世瀬川日照貫首(柏市妙照寺より晋山)。親師法縁縁頭寺。本法寺は寺伝によれば、1436年(永享8年)日親が本阿弥清信の帰依を得て創建。当初は東洞院綾小路(現・京都市下京区)にあった。前述のとおり、日親は1440年(永享12年)足利義教の怒りを買い投獄されたが、翌年赦免された。日親は1463年(寛正3年)にも投獄され、寺は破却されたが、翌1464年(寛正4年)赦免され、寺は三条万里小路(さんじょうまでのこうじ、現在の中京区三条柳馬場)に再建された。1536年(天文5年)本法寺は洛中の他の法華系寺院とともに天文法華の乱で焼失し、堺に避難した。1542年(天文11年)後奈良天皇は、法華宗帰洛の綸旨を下し、本法寺は一条堀川に再建された。1587年(天正15年)豊臣秀吉の命により、現在の地に移転している。1788年(天明8年)天明の大火により焼失したが、その後再建された。日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。京都市営地下鉄烏丸線鞍馬口駅から徒歩15分。
出典:wikipedia
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