忍原崩れ(おしばらくずれ)は、弘治2年(1556年)又は永禄元年(1558年)の夏に毛利軍が忍原(島根県大田市川合町)で尼子軍に大敗北を喫した戦いをさす。地元では新原崩れ(うしばらくずれ)とも呼ばれている。石見国の石見銀山(大田市)は、大永6年(1526年)より大内義興支配の元で本格的な採掘が始まり、享禄3年(1530年)、地元豪族である小笠原長隆の銀山占拠を嚆矢として、争奪戦が開始された。3年後に大内氏が奪回するも、天文6年(1537年)には尼子経久が石見国へ侵攻し銀山争奪戦に介入を始める。天文22年(1553年)4月頃、当時銀山を支配していた大内氏は刺賀長信を銀山側の山吹城主として任じたが、天文24年(1555年)同氏を仕切っていた陶晴賢が厳島の戦いにて敗死し、大内氏の勢力が石見国から後退。代わって毛利氏が、尼子氏との石見銀山争奪戦を始めることとなった。石見銀山は、江戸幕府が天領とするまでは商人の独自権益であり、毛利氏・尼子氏などの諸大名は、その産する銀鉱石(後には銀そのもの)を輸送する津料(通行税)を徴収していた。その権利を確保するために銀山のすぐそばに大内氏が山吹城や矢滝城を築いた(銀を産する山の方が両城より標高が高いが、鉱夫やその家族を殺傷することは不利益になるので、大名はこちらにはあまり手を加えなかったようである)。石見銀山を確保するにあたり、大きな焦点になったのは山吹城であった。急峻な山頂に構えられた堅城である為、力押しは到底不可能であり、落城させる手段は二つに限られた。1・城主に有利な条件を提示して降伏させる。2・兵糧攻めにして降伏させる。1の方法が通用しない場合は2の方法で攻めることとなり、この2の方法が石見銀山を巡る争いの基本となった。石見銀山へと尼子氏が進軍するときに使う主要道(現:国道9号線)とT字状に交わる道(現:国道375号線)の途上に忍原は位置している。地元の資料には合戦場は当時、亀谷城(亀谷城山)を中心として周囲に鍛冶屋屋敷や武家屋敷を要する交通の要衝(すなわち経済の要衝)であったとある。忍原の尼子側拠点である亀谷城が落城すると、山吹城(大田市大森町)を攻めている尼子軍への補給路を毛利軍によって絶たれるという事を意味していた(海路で兵糧を運ぶ場合は、城の周囲に展開する毛利軍を突破しなければならない)。逆に言えば、忍原と亀谷城を尼子側が確保すれば、毛利側の補給路を脅かすことなる。つまりは、石見銀山を確保するには、両者共に忍原が戦略的には重要な価値を持っていたのである。防長経略の最中(須々万沼城の攻略中)である弘治2年(1556年)3月に元春が宍戸隆家・口羽通良らと共に石見へ出陣して山吹城主・刺賀長信を5月に降し、毛利氏は石見銀山を支配下に置いた。石見遠征軍の拠点となったのは口羽通良の居城琵琶甲城(邑南町)と思われる。なお、周防国・長門国の攻略がまだ完了していないこの時に元春を石見に遣わしたのは、本格的な石見攻略よりも、石見の尼子方勢力を抑えてスムーズに防長経略を進めるための布石とも言われている。これに対し、尼子晴久は備前国(浦上政宗を支援する遠征)から素早く撤兵し、石見銀山奪取のため軍勢を繰り出したとされる。緒戦で毛利軍が尼子軍を撃退するものの、再来した尼子氏・小笠原氏の連合軍と毛利軍の戦いが忍原で生じた。弘治2年5月に山吹城と石見銀山を支配下に置いていた毛利氏は、防長両国を平定した後の永禄元年 (1558年)5月下旬に小笠原氏方の諸城を攻め落とし、6月には温湯城(川本町)に迫った。尼子晴久は、本城常光らと共に温泉津(大田市)に出陣するが、豪雨の影響による江の川の増水で対岸の温湯城へ向かうことはできず、川を挟んで両軍が睨み合いとなり、その間に隆景の説得を受け入れた小笠原長雄は8月に開城した。一方、温湯城の救援に失敗した晴久が、軍勢を転じて山吹城を攻めたために忍原で戦いが行われることとなった(温湯城が陥落しなかった異説有り)。尼子軍25,000騎が山吹城を攻めると、毛利側も宍戸隆家率いる7,000騎を向かわせた。忍原にて宍戸軍・尼子軍の激戦地とされる「一の渡」「二の渡」は山間の谷川が流れる狭隘な地形で、数で劣る宍戸軍が陣取るには当然の箇所であると思われる。さらに亀谷城と尼子軍を分断する地点でもあり、ただ1つの点を除けば理想的な場所であった。地元の資料によると尼子軍は急峻な山に登って石を落し、宍戸軍を両側から挟撃したという内容が読み取れる。宍戸軍としては予測していない方面からの攻撃であり、さらに亀谷城の城兵と呼応した攻撃を受けたと思われる。これにより逃げ場を失った宍戸軍は統制が取れなくなり自壊、死者数百名を出して敗走した。宍戸軍を撃退した晴久は、その後駆けつけてきた元就・元春の両軍と対峙したものの、その間にも山吹城の包囲を続け、守将の刺賀長信の自害により9月3日に山吹城を陥落させた。この合戦より尼子晴久は石見銀山と山吹城を奪取。山吹城には、大きな戦功があった高櫓城(出雲市)の城主・本城常光を城代として置いた。また、尼子氏はこの石見銀山を手中に収めることを確実にする為に、在地豪族の温泉英永と尼子直臣である多胡辰敬・牛尾久清との連絡網を構築する。その後、毛利氏は石見銀山の奪取を何度か企てるも敗北し(降露坂の戦いなど)、尼子晴久の存命中にこれを降す事は出来なかった。結局、毛利氏が石見銀山を取り返すのは、雲芸和議や調略を経た永禄5年(1562年)となる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。