LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

くし触神社

槵触神社(くしふるじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する神社である。国史見在社「高智保皇神(高智保神)」の論社で、旧社格は県社。古くは「櫛ひ大明神」や「くしふる大明神」と称せられ、また「二上(ふたかみ)神社」、「高智保皇神社」とも呼ばれており、明治4年(1871年)に「二上神社」を正式社名としたが、同43年に「槵触神社」に復した。なお、「槵」が難解な漢字であることから、平仮名で「くしふる神社」と書かれることが多い。本来は槵触山そのものを神体とするが、現在は本殿を構えて天津日子番邇々杵命(あまつひこほのににぎのみこと)を主祭神として祀っている。なお、当神社が国史に見える「高智保神(高智保皇神)」とすれば、中世のものではあるが、『八幡宇佐宮御託宣集』巻2に、「高知尾(明神)」は神武天皇の御子である神八井耳命の別名で、「阿蘇(大明神)」の兄神であるとしたり、『平家物語』巻8緒環段に、豊後緒方氏の祖神を「日向国にあがめられ給へる高知尾の明神」として、その神体は「大蛇」であるとするなどの異伝がある。相殿に天児屋根命・布都恕志命・布刀玉命・建御雷命を祀っている。創祀の事情は不詳であるが、槵触山の中腹に鎮座し同山を神体山とするため、長く本殿を持たなかったという。槵触山は日本神話の天孫降臨の行われた聖蹟と伝え、『日本書紀』神代巻下の天孫降臨段第1の一書に見える「高千穂の槵触之峯(くじふるのたけ)」や、第2の一書の「槵日高千穂之峯(くしひのたかちほのたけ)」、『古事記』の「筑紫の日向の高千穂之久士布流多気(くじふるたけ)」、『日向国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)の「高千穂の二上の峯」に比定され、古来霧島山とともに天孫降臨の有力な比定地とされ、霧島神社と並び称された。また、当神社が国史に見える「高智保神(高智保皇神)」であるとすれば神階の授与が行われたことになるが、『延喜式神名帳』への記載は見ないままとなったことになる。古来より高千穂神社の春祭りに対して秋祭りを行うなど、同社と密接な関係を持つとともに、社殿を持たぬながらも高千穂郷八十八社の1つに数えられて旧三田井村々民から崇められて来たが、社伝によれば、三田井の領主であった三田井氏(豊後大神氏の後裔)の滅亡とともに荒廃したと伝える。元禄7年(1694年)に社殿建立を熱望した高千穂神社宮司が延岡藩主三浦明敬の援助を仰ぎ、高千穂18郷の郷民の協力の下、初めて社殿が建立された。また、藩主内藤氏も祭礼に代参を派遣して神事料を奉納するなどしている。国史見在社に比定されたため、明治4年に県社に列せられ、戦後は神社本庁に属している。国史見在社であれば、承和10年(843年)9月甲辰(19日)に都濃皇神とともに無位から従五位下を授けられ(『続日本紀』)、天安2年(858年)10月22日に同じく都農神とともに従五位上から従四位上に昇った(『日本三代実録』)。例祭は10月16日。上述のように高千穂神社の春の祭りに対する秋の感謝祭で、年占の意味を込めた神事相撲が奉納される。かつては九州一円から力士が集まり、高千穂方と来訪方に別れて技を競ったという。本殿は三間社流造銅板葺で、棟に千木・鰹木を置く。平成2年(1990年)に高千穂町の有形文化財に指定された。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。