高根島(こうねしま)は、日本の瀬戸内海中部にある芸予諸島の島のひとつで、広島県尾道市に属す島である。島には後述の山が2つあり、「四里の小島に高嶺がある」という言葉が島の名の由来となっている。かつては高嶺島(香根島)と表記されていたが、名前を改め高根島となった。みかんを主とした柑橘類の栽培が盛んである。島の西岸は青戸瀬戸で本州(三原市須波町、三原市幸崎町)と隔たれ、東南岸から瀬戸田水道を挟んだ向かいには生口島があり、両島は高根大橋(延長 205 m)で結ばれている。律令国としては隣接の生口島とともに安芸国に属し、豊田郡であった。江戸時代はその初頭を除き、広島浅野領で、三原浅野家老支配下である。伝承に七軒竈というものがあり、高根島に最初に居住したのはこの7軒とされる。天福寺(天福寺という廃寺があったとされる)・寺屋敷(束石が遺構として残る)、真観寺という小字付近に7軒のほとんどが住んでいたとされる。実際、江戸期の屋敷跡がこの付近に集中する。(現在は農地となっており遺構はない。)戸数129戸、「民農余採樵また塩田なり」1889年(明治22年)の市町村制施行時には高根島村として一島一村。であったが、1944年(昭和19年)に瀬戸田町と対等合併。2006年(平成18年)1月10日には因島市とともに尾道市に編入される。高根島の集落は歴史的に島の東岸部特に瀬戸田水道沿いに集中し、西岸部には別荘と思われる建物以外の住居は現在は存在しない。かつて西岸部の農地は能地(現:三原市幸崎町能地)の住民が所有、農船を乗付けて耕作していたためという、当時は農機具を収める納屋を兼ねた小屋があり起居していた者もいたというが、最後の人別に高根島村の住民としては記載がなかった。大正-昭和初期に高根住民が西岸部の農地を完全に取得した後も整備された道路がないため東岸部から農船を利用して耕作を行っていた結果数棟残り、隠居として利用する者もいたが、島一周の沿岸道路や農道の整備、バタンコの登場によって東岸部へと居を移していった。このほか島の北部の内ノ浦に東岸南部から農地開拓で転居した住居が存在している。これは地理的に内ノ浦へ向かうには昭和20年代に後述の高根隧道が出来るまでは、農船を利用する外は高根隧道の上の峠をつづら折りの小道で超えるか干潮時に今の高根灯台下を経由する海浜を進むしかなく、却って島南部から小字天福寺を経由して高根山と竜王山の間の峠を通る里道が一番の近道で主要なルートであったためである。(内ノ浦の奥・島中央部までミカン畑が広がっているのはこのためであるが、現在は峠周辺の里道が車道としては未開発のため高根隧道経由となり、近年は最奥部の農地から耕作放棄されている。)産業は柑橘類の栽培が主幹であるが、ここでは過去の産業についても記載をする。柑橘栽培の農業が主幹産業であり住民の八割はこれに携わっている。温州ミカンの生産が始まるまでは、除虫菊・タバコ・麦などを生産していた。昭和初期までは水田もあったが夏季の降水量が少ないことから生産量が乏しく早々に廃田しミカンに転換している。昭和20年代から40年代は温州ミカン(早生品種)の一大産地として東京圏(荏原市場・神田市場)・関西圏(京都市場)に出荷され名を馳せていた。このため高根農協として単独で島内に選果場を持つなど有力農協であったが、国策による農協の合併の流れから瀬戸田農協に組み込まれた。なお、前述のとおり東京・関西圏が主要な市場であったため、同じ県内の広島市にはあまり名が知られていない。昭和50年代までは、同品種が主品目であったが、現在は多様な品種(雑柑類)を栽培しておりこれといった品種は存在しない。古くは採漁の記録があるものの、柑橘栽培が盛んであったため、漁業権に興味がなかったのか設定されていない。このため昭和末期から平成初期に起こった「海砂過剰採取問題」の際には沿岸土砂流失被害を受けたものの、漁業補償金による保証は一切受けていない。瀬戸田漁協の組合員はいるが、係留されている小型船は遊興用である。塩田があったが、生産量が乏しかったためか。最後まで入浜式塩田が残った地域としては珍しく昭和初期には廃田となっており、柑橘類の栽培が盛んになった昭和期には埋め立てられて農地に転用された。島北部、内ノ浦に造船所で組み立てられるブロック(船舶部材)を製造している鉄工所が存在する。風化花崗岩地質が主に占める標準的瀬戸内気候の土地である。夏季に雨量が少ない。一周11キロメートルに満たない島としては高い山を持つこと、穏やかな気候と海面からの強い反射光を生かし商品性の高いミカンを生産することから、昭和中頃には柑橘の名産地として全国に名を馳せた。島内に二つの山脈がある。高根大橋(こうねおおはし)は、瀬戸内海の瀬戸田水道に架けられた高根島と生口島を結ぶ道路橋で、尾道市道(高根大橋線)の橋である。広島県の「高根地区団体営農道整備事業」により建設され、1970年(昭和45年)7月27日に開通。両端を固定したアーチリブに支持される中路式ローゼ橋を採用し、鋼橋のソリッドリブ固定アーチ橋は当時の日本では前例のない形式であった。柑橘類の栽培が盛んな高根島にちなみ、橋の色は柑橘系の色が採用されている。内の浦トンネル(うちのうらトンネル)は、島を一周する広島県道370号高根島線のトンネルである。1952年(昭和27年)に素掘りのトンネルとして開通。2014年(平成26年)6月から拡幅工事に着手し、2015年(平成27年)7月にコンクリート造りのトンネル(延長 111 m、幅員 4 m)として改修完了。海側の入口から出口を見ると、みかん山の緑色。山側の入口から出口を見ると海の青色。対比が美しい。
出典:wikipedia
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