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重松良典

重松 良典(しげまつ よしのり、1930年4月2日 - )は、日本の実業家。広島県広島市出身。元サッカー日本代表。1965年の日本サッカーリーグ(JSL)創設を実現させた人物。後に日本プロ野球界に転じ1970年代の「赤ヘル旋風」時の広島東洋カープ球団代表としても著名。Jリーグ所属のベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)としての最後の社長である。1945年8月6日8時15分、広島市への原子爆弾投下により被爆した。重松ら旧制広島県立第一中学校(現広島国泰寺高校)の3年生60人は、爆心地から2.2キロメートルに位置した舟入川口町の軍需工場に学徒勤労動員で来ており、ちょうど8時の朝礼が終わった後のことだった。倒れてきた設備機械により級友の一人が亡くなり、多数の怪我人を出した。工場自体は火の手が上がらず倒壊もしなかった。その後、一時避難場所であった市立第一高等女学校(現広島市立舟入高等学校)に集合した後、級友2人といっしょに明治橋から鷹野橋へと入り、御幸橋を渡って逃げている。現役時代はFWで、後方からのロングボールを半身で胸トラップしてゴールへ向かう、当時としては特別な技術を持った選手であった。同校の福原黎三は1つ下、田中雍和は3つ下。他校では広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)の長沼健や古川能章は同年齢、広島修道中学(現修道高校)の下村幸男は1学年下。戦時中の休止とこのライバルチームである広島高師に全国大会の出場は阻まれた。慶應義塾大学体育会ソッカー部でキャプテンをしていた同郷の銭村健次に誘われ1949年、慶應義塾大学に進学。同大学ソッカー部で、LW(左ウイング)の名選手として鳴らし、天皇杯全日本サッカー選手権大会は1952年大会の慶應制覇の立役者となった。コーナーキックにカーブをかけて、直接ゴールに入れるのがうまかった。1954年大学を卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社した。同じく慶應義塾大学の黄金期を創った高校・大学の先輩小畑実監督下で、下村幸男・北島秀夫・銭村健次・樽谷恵三らととも東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)初期の黄金期の原動力となった。同年全日本実業団サッカー選手権大会でチーム初のベスト4。同年の天皇杯では、実業団チームとして史上初の決勝に進出した。決勝戦、後輩でもある慶應BRBとの第4延長3時間に及ぶ3-5の死闘は、疲労で意識不明者も出した日本サッカー史に残る名勝負といわれる。同年と翌1955年の全日本実業団はライバル・田辺製薬にいずれも敗れ準優勝。しかし翌1956年の全日本実業団は田辺製薬の7連覇を阻み初優勝した。1957年全日本実業団準優勝、同年の天皇杯準優勝。この年の天皇杯決勝は高校のグラウンド、重松の母校・国泰寺高校の校庭で行われた。試合は重松のシュートで先制するも中大クラブに逆転負けして準優勝に終わった。また1958年には、第3回アジア競技大会(東京)で全日本(日本代表)に初選出され、5月28日対香港戦にて初キャップを果たす。現役引退後、社業に専念した。その後東洋工業東京支社の経理課にいた経験を買われ、日本蹴球協会(現日本サッカー協会)入りし、日本サッカーリーグ(JSL)創設の設立準備委員会の経理の担当者となり西村章一・長沼健・岡野俊一郎らと陣頭指揮を執り設立を実現させた。中心となったのはこの4名である。その後も初代JSL総務主事を務めた西村の後を受け2代目JSL総務主事として初期JSLの運営にあたったり、同時に日本蹴球協会理事として協会の仕事もこなすなど多方面に活躍していた。また、協会在籍時の1968年、藤和不動産サッカー部(のちのフジタSC/ベルマーレ平塚、現・湘南ベルマーレ)の設立に黒木芳彦や石井義信らと共に携わっている。1972年、蹴球協会を法人化、日本サッカー界を学生サッカー中心からJSLおよび協会主導となるように画策した。これが1976年の日本蹴球協会の政変へと繋がった。その後東洋工業にもどり総務課長を務めたあと1974年、西野襄の後を受け広島東洋カープ球団代表に就任した。翌1975年重松と根本陸夫元カープ監督(当時解説者)の2人は共にジョー・ルーツコーチがチームを劇的に変える人材として認識し、根本が次のカープ監督として松田耕平オーナーに推薦したことから、日本球界では初のメジャーリーグ出身外国人監督となるルーツ監督就任が決定した。重松がルーツを監督にしたかった理由として、負けても悔しがらない選手の顔が我慢ならず闘争心を持ち合わせるルーツが変化をもたらせることを期待したことと、「日本人にはコンプレックスがあって外国人の言う事はよく聞いた」ため。しかし賛同する者は誰一人なく、監督を「城主」コーチを「城代」に例え「城代ならいいが、城主に外国人というのは納得がいかない」と反撥を受けた。重松はルーツの要望により実務者として動く。安仁屋宗八・大石弥太郎・白石静生をトレードに出し、逆に大下剛史・宮本幸信・児玉好弘・渡辺弘基をトレードで獲得するなど7人放出し7人獲得した。またリッチー・シェーンとゲイル・ホプキンスの現役メジャーリーガーを獲得、スタッフも入れ替え一新させた。さらにルーツはチームカラーを紺色から燃える闘志を表す赤色への変更を要望した。重松はほぼすべて要望に答え、「赤ヘル旋風」の陰の仕掛人とも言われている。チーム改革をした重松だが1975年シーズン当初は、「セ・リーグは巨人を中心に盛り上げていかなければいけないんだよ」とサッカー時代の知人記者であった牛木素吉郎に吐露したり、「がんばって5位になろう」と発言しトレードで獲得した宮本幸信がショックを受けたりしている。投打に能力の高い選手が揃い下地の出来ていたチームはルーツにより大きく生まれ変わったものの、当のルーツは同年4月27日の佐伯和司投手のボール判定からの審判への暴行に端を発し辞任している(詳細はジョー・ルーツの項を参照)。ルーツ退団後、現場スタッフの意見を取り入れ松田オーナーに古葉竹識コーチを次の監督に推薦した。古葉監督のもと、カープは悲願のセ・リーグ初優勝を果たす。また、球団が抱えていた創設以来の累積赤字を一挙に解消した。その後も平山智がスカウトしたジム・ライトルやヘンリー・ギャレット獲得、江夏豊らのトレードを敢行し戦力を整え、在任中3度のリーグ優勝と2度の日本一(1975年リーグ優勝・1979年日本一・1980年日本一)、カープの黄金時代をもたらした。1981年末に辞任、後任は野崎泰一となった。同1981年から、フジタ工業(現・フジタ)に転る。日本サッカー協会専務理事などを務め、1993年のJリーグの設立にかかわっている。在任中、1995年ネルシーニョの日本代表監督内定騒動(いわゆる「腐ったミカン」事件)にも絡んでいる。1997年6月、フジタの子会社にあたるJリーグ・ベルマーレ平塚社長に就任した。同チームはこの時期黄金期を迎え、1998年のフランスW杯には小島伸幸・洪明甫・中田英寿・呂比須ワグナーと日韓合わせて4人の代表選手を輩出、Jリーグ上位に常にいるチームであった。1998年中田のACペルージャ移籍にも尽力する。ただこの間、親会社であったフジタの経営不振がチームに影響を及ぼしていた。1998年末、フジタが経営の建て直しを図るためベルマーレへの出資を減らしたことから、運営費を減らすため主力選手のリストラを決行する。結果、小島伸幸・洪明甫・呂比須ワグナー・名塚善寛・田坂和昭・公文裕明と次々と主力が移籍し、1999年J1で年間成績最下位となりJ2に降格、同年フジタも私的整理(任意的倒産処理)を行ったことから一時はチーム存続の危機が囁かれた。この間、重松はチーム存続のために動いている。1999年末、重松は新会社に籍を移らず退任する。2000年、フジタが累積赤字を解消する代わりに運営から完全に撤退し、新たに会社に移して「湘南ベルマーレ」にチーム名改称、ホームタウンも拡大し市民参加型のサッカークラブに体制一新する。会長に河野太郎、社長に小長谷喜久男が就任した。同時期に横浜フリューゲルスが親会社の経営不振からクラブ消滅にまで発展したことから、ベルマーレはJリーグクラブのモデルケースの一つとして見られている。2000年Jリーグ参与に就任、その他日本サッカー協会参与に就任したが、任期満了及び定年により2010年現在双方ともに退任している。2002年のワールドカップ開催にも尽力した。2011年現在広島県サッカー協会顧問。現在は、地元広島に在住。|-!通算

出典:wikipedia

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