鎌原観音堂(かんばらかんのんどう)は、群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原にある観音菩薩を祀る礼堂である。1783年(天明3年)7月8日(旧暦)、火口より北側約12Kmにある鎌原村は、浅間山の大噴火(いわゆる天明の大噴火)による土石流に襲われ壊滅。このとき鎌原村の村外にいた者や、土石流に気付いて階段を上り観音堂まで避難できた者、合計93名のみが助かった。この災害では、当時の村の人口570名のうち、477名もの人命が失われた。現在、地上部分にある石段は15段であるが、村の言い伝えではかつてはもっと長いものだったとされていた。1979年(昭和54年)に観音堂周辺の発掘調査がおこなわれた結果、石段は全体で50段あったことが判明し、土石流は35段分もの高さ(約6.5メートル)に達する大規模なものであった事がわかった。また、埋没した石段の最下部で女性2名の遺体が発見された(遺体はほとんど白骨化していたが、髪の毛や一部の皮膚などが残っていて、一部はミイラ化していた)。若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかり、顔を復元したところ、良く似た顔立ちであることなどから、娘と母親、あるいは歳の離れた姉妹など、近親者であると考えられている。浅間山の噴火に気付いて、若い女性が年長者を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったものと考えられ、噴火時の状況を克明に映している。また、天明3年の浅間山の噴火で流出した土石流や火砕流は、鎌原村の北側を流れる吾妻川に流れ込み、吾妻川を一旦堰き止めてから決壊。大洪水を引き起こしながら、吾妻川沿いの村々を押し流し、被害は利根川沿いの村々にも及んだ。この一連の災害によって、1,490名の人命が奪われる大惨事に及んだ。また、当時鎌原村にあった「延命寺(えんめいじ)」の石標や、隣村(小宿村=現在の長野原町大字大桑字小宿)にあった「常林寺(じょうりんじ)」の梵鐘が、嬬恋村から約20km下流の東吾妻町の吾妻川の河原から約120年後に発見された。大噴火によって甚大な被害を受けて不安な日々を過ごす住民は、江戸の東叡山寛永寺に救済を求めた。前年に東叡山寛永寺護国院の住職から、信州善光寺別当大勧進貫主に就任した等順が被災地に入り、炊き出しのための物資調達に奔走、被災者一人につき白米5合と銭50文を3000人に施し、念仏供養を30日間施行した。その様子は、「数多の僧侶を従えて ほどなく聖も着き給い 施餓鬼の段を設ければ のこりの人々集まりて みなもろともに合唱し 六字の名号唱うれば 聖は数珠を爪ぐりて 御経読誦を成し給う」と、『浅間山噴火大和讃』として伝承されてきた。1784年(天明4年)7月、等順は善光寺本堂にて浅間山大噴火被災者の追善大法要を執行、被災地には1,490人の名前が書かれた御経塔婆木が送られた。また、被災した人々の心の平安を取り戻すため、大量に授与した『血脈譜』とよばれるお守りが評判となり、落語『お血脈』の題材になったその縁から、等順大僧正自筆の「南無阿弥陀仏」の名号碑が建立されており、2015年8月5日に行われた「浅間押し233回忌供養祭」では、善光寺長臈の村上光田大僧正が招かれ地元の常林寺の高橋邦光住職らとともに読経、「等順は仏様の慈悲にすがって被災者の生き残った人のケアをしようとした。」、「鎌原の被災者の供養が、現在の善光寺御開帳の原点になった。」と解説している。村がまるごと飲み込まれたことから、東洋のポンペイとも呼ばれ、発掘による出土品や当時の様子、絵図などが観音堂に隣接した嬬恋郷土資料館に展示してある。多くの火山災害の被災地では、生き残った住民が避難した先(場所)で新しい町を再建したが、鎌原は、生き残った住民が同じ場所に戻って、村を再建した非常に珍しい例である。現在、火山災害から命を救った観音堂は厄除け信仰の対象となっており、地元鎌原地区の鎌原観音堂奉仕会の人々が交替でお堂に詰めて、先祖の供養を1日も欠かすことなくおこなっている。観音堂を訪ねると保存会の方から昔語りの話を聞くこともできる。本尊は十一面観音菩薩。
出典:wikipedia
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