石田 晴久(いしだ はるひさ、1936年10月30日 - 2009年3月9日)は、日本の計算機科学者。東京大学理学部物理学科修士課程修了。Iowa State UniversityでPh.D, 取得。東京大学名誉教授、サイバー大学IT総合学部長。台湾生まれ。1959年 東京大学理学部物理学科卒業、1961年同大学院物理学修士号取得(論文名は「 A Study on Esaki Diode High Speed Logical Circuits」、指導教官は高橋秀俊) 石田はその後フルブライト奨学金で米国に留学。アイオワ州立大学で1964年にPh.D.を取得。Ph.D. 論文タイトルは"A generalized learning network using adaptive threshold elements"。その後マサチューセッツ工科大学研究員、1966年電気通信大学助教授を経て、1970年に東京大学大型計算機センター助教授に就任。1975年-1976年 AT&T Bell Labs 客員研究員。1982年に東京大学教授となり、1997年に退官。同年に多摩美術大学に移り情報デザイン学科教授・メディアセンター所長を務めたが、2007年3月に同大学を退職。同年4月に開校したサイバー大学のIT総合学部長に就任し、亡くなるまで同職を務めた。このほか日本ネットワークセキュリティ協会会長も務めていたが、同年6月に特別顧問へと退いた。日本インターネット協会(IAjapan)名誉会長、ISOC Board of Trustees(1993-1998)。なお、2005年には会津大学の学長選挙に立候補したが落選している。2009年3月9日(月曜日)午前7時00分、心筋梗塞のため東京都内の病院で72歳で没した。叙従四位、授瑞宝小綬章。2013年6月に没後ではあるが Internet SocietyによるInternet Hall of Fameへの殿堂入りが発表された。授賞式には夫人が参加した。同時に殿堂入りする村井純は東京大学大型計算機センター時代に教授と助手の関係にあった。業績は多岐に渡る。東京大学時代には大型計算機センター長として、慶應義塾大学の村井純らと共に日本におけるUNIX、インターネットの基礎を築いた。すでに1970年代半ばには、研修先のベル研究所からUNIX 6th Editionを持ち帰って日本ではじめてUNIXを起動したり、そのソースコードを読むための勉強会の開催を実施している。またコンピュータを利用した印刷技術にも興味を持ち、UNIX V7に搭載されたtroff向けの写植出力装置CAT を購入して、センターの地下の現像薬品のにおいのする端末室で利用できるようにした。同時に、そもそも印刷するための文書の入力をどうやって行うのか(仮名漢字交じりの日本語入力)、漢字をどうやって安価に出力するかといった問題にもセンターの運営側として、また個人的にも興味はあり研究活動をおこなっていた。ゆえにAdobe のポストスクリプトを搭載したPSプリンタと、2次曲線を利用したフォントの提供には敏感に反応した(TODO: 読者の半分は、日本語の印刷できるプリンタが自宅にないような環境とその時代を想像できないことに注意)。またかつてのC言語のリファレンス本であった「The C Programming Language」(通称「K&R」)の日本語版「プログラミング言語C」の訳者としても有名。「プログラミング言語C」をはじめ、UNIX関連の著書、訳書を多数執筆した。UNIX、C言語のほかUCSD Pascalの紹介も行っているほか、フリーソフトウェア大賞創設メンバーの一人でもある。大学の仕事、一般向けの著作活動以外にも技術の普及、広報に力を注いだ。1970年代の前半にはNHK教育テレビの「コンピューター講座」の担当者の1人となった。「(昭和)48,49両年度については、島内剛一(立教大学)を主任講師とし、石田晴久(東京大学)、寛捷彦(東京大学、後に立教大学)、木村泉(東京工業大学)、広瀬健(早稲田大学)、米田信夫(学習院大学)の合計6人が、講座の立案企画から、各番組での講師役までを担当した」( 筧 捷彦による報告論文よりの引用。参考元より当時の論文のPDFが入手できる。)このコンピュータ講座はそれ以前のバッチ、あるいはTSS中心の内容からスタジオにミニコンを持ち込んでその場で編集実行結果をみることができるスタイルに変わって、また多種の周辺機器をつけたことが重要である。昔このコンピュータ講座をテレビでみてコンピュータに興味を持ったというの人は多い。(時代背景:この時代は卓上電卓が急速に広がりだした時代だが、まだプログラム可能なコンピュータに触れたことのある人は少なかった。)Intel 8008(1972年に発表)から始まった8ビットマイクロコンピュータ(以降MC6800 1974年、MOS 6502 1975年と新CPUの発表が続く)の能力の可能性を感じその普及が大事だと考えた石田は1970年代後半には当時の8ビットコンピュータのためのTiny BASICインタープリターを普及する会を主催した。当時の北米のコンピュータ自作記事などが掲載された雑誌を共同購入しようという目的で配布された資料に掲載された本部の住所は、石田の住所だったと思われる。[求む当時の印刷資料] (時代背景:一ドル=200円を超える為替レートの時代で、Amazonがない時代には海外の出版物を購入するのは困難で、また高価であった。丸善、紀伊国屋といった大手の書店が輸入代行を行っていたが、為替変動リスクをカバーするために非常に高価な値段付けがなされていた。クレジットカード決済も今ほどには広がっていない時代である。)また、石田が主催して大型計算機センターの講習室で催された自作コンピュータボードのプログラミングの紹介などを行った一連のセミナーに参加して、そのあとTK-80のキットを購入利用したり、自作に手を染めた人々は多い。Dr. Dobb's Journalを初めてそこで見た者も多いはずである。これらの活動は当時の共立出版社発行の月刊コンピュータ雑誌 bit に詳しい。1970年代後半から1980年代の石田の大学のオフィスは、日本のマイクロコンピュータを利用したソフトウェア、ハードウェアベンダーのメッカのようなものであり、業者が製品の紹介にひっきりなしに訪れてサンプルをおいていった。これらの中には、日本の輸入元を伝手にアメリカのガレージメーカーが販売網を整備しようとセミナーを行うため、輸入元を介して技術の分かる通訳をさがしていた事例もあった。石田は当時の大学院生に東京、大阪の二日間のセミナーの通訳をまかせた。ガレージメーカーから脱皮しつつあるその会社の名前はApple II Plus の販売を日本で拡大しようとしていた Apple Computer、Inc.であった。こういった形で石田は国内外のマイクロコンピュータ関連企業また出版企業に多数の知己を得た。当時石田は興味をもった製品は自分で試して、よいと思ったものは不十分なマニュアルを補う簡単な説明カードを自分で手書きで書いて、秘書に清書をさせて部下、学生に使わせてみたりした。学生はいったいいつこんなものを書く時間がセンターの開発部長職の教授にあるのかと不思議におもったと伝えられる。しかし、悪い製品には石田は内輪では容赦ない批判を理路整然と述べた。成功した「コンピュータ講座」に続き、1981年(昭和56年)にNHK教育テレビで、木曜日の夕方午後5:30から放映される「ジュニア文化シリーズ・サイエンスレーダー」の総合司会を担当した。この番組の内容は本として編集された: 映像ルポマイコン。番組では当時の新しい技術の紹介がなされた。IT関係では、たとえばワードプロセッサの仮名漢字変換なども紹介された(ワープロOASYSの開発に携わった神田泰典の作成したウェブページにこの番組に取材された様子が掲載されている。ワープロ、PCの普及する以前の予算の乏しい番組の台本にはガリ版刷りのものがあったことが分かる。)。パソコン番組「コンピュートないと」(1983年、テレビ東京)の初代司会者を務めた。
出典:wikipedia
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