首都圏国電暴動(しゅとけんこくでんぼうどう)とは、1973年(昭和48年)4月24日、国鉄労働組合(国労)・国鉄動力車労働組合(動労)の順法闘争に反発した乗客が、首都圏の日本国有鉄道(国鉄)の駅で同時多発的に起こした暴動事件である。なお、事件当時は4・24騒動、4・24事件という呼称も見られた。1973年(昭和48年)の春闘で、国労と動労は、順法闘争を争議戦術として、経営当局に対抗していたが、利用客からは批判と反発を招いただけとなり、3月13日朝には高崎線上尾駅他数駅で、乗客が鉄道車両や駅施設を破壊して駅周辺を占拠した暴動は、上尾事件に発展していた。本来であれば、この時点で事態の収拾を図るべきであったが、労使双方とも歩み寄りは見られなかった。とりわけ国労・動労は「上尾の件は権力側の扇動したもの」と、根拠も示さないまま反論し、利用客への謝罪を拒否したばかりでなく、順法闘争を断続的に再開した。順法闘争自体への法的解釈論議を別としても、このような態度をとる組合に対し、マスメディアは利用客の視点から批判を行い、国民の国労・動労への怒りも、もはや限界に達していた。4月24日、この日も順法闘争のため国鉄線のダイヤは混乱していた。特にこの日からは4月27日の交通ゼネストを控え、順法闘争を強化していた。16時30分頃、大宮駅では東北本線・高崎線が順法闘争によるダイヤの乱れで60-90分遅れとなったことと、帰宅時間とが重なったためホームに乗客が溢れ出した。一部の乗客が駅長室を占拠する騒ぎを起こすなど一時険悪な状況となったが、埼玉県警への警備出動の要請とあわせて、東武野田線・バスなどへの振替誘導をしたことで、この時はかろうじて沈静化した。しかし、赤羽駅の東北・高崎線下りホームでは一向に到着しない列車に利用客の不満が高まっていた。20時頃、青森行急行「津軽1号」を宇都宮駅まで普通列車扱いにすると案内放送が流れた。定刻であれば「津軽1号」は上野駅19時35分発であるが、順法闘争と荷物積込みの遅れから20時15分に上野駅を発車。しかも上野駅を発車した時点で超満員となっていた。「津軽1号」の到着前、赤羽駅列車ホームで上り中距離電車が停車中、ホーム上の乗客1,500人が下り電車が来ないことに不満を募らせ「停車している電車を折り返し運転しろ」と要求し運転士を引き摺り下ろして中距離電車を破壊し始めていた。そのような事態が進行していた20時30分頃、「津軽1号」は数百人が待つ赤羽駅に到着した。しかし既に超満員のため駅の乗客は乗車することが出来ず、乗客は機関車を取り囲み、機関士を追い払って窓ガラスを割り始めた。このため「津軽1号」も赤羽駅を発車できなくなり、国鉄側は京浜東北線へ乗客を誘導する案内放送を行った。しかしこの時、京浜東北線北行の電車も赤羽駅手前で信号機故障により運転見合わせとなり、乗客が線路を歩き駅へ向かう事態となっていた。21時頃には赤羽駅の各線ホームは6,000人もの人で溢れ、更に駅長室に詰めかけて暴れ、駆けつけた機動隊に対して気勢を挙げて対峙する等の暴動に発展した。21時30分頃には1番線に停車中だった京浜東北線磯子行電車車内で発煙筒が燃やされ、車内も破壊された。22時30分頃には男性が運転台に放火する騒ぎとなった。赤羽駅での列車運行停止は山手線などにも影響が及んで次々と国電の列車運行が停止する事態となり、そのため、暴動が他の駅にも波及することとなった。上野駅では21時前、発車しない電車にしびれを切らした乗客が高崎線籠原行列車への投石を始め、高崎、東北両線電車の運転士を電車から引き摺り下ろして連行した。7番線ホームでは乗客3,000人が発炎筒を炊いて窓ガラスを割り始めた。この騒ぎをきっかけに騒乱状態となり駅機能が麻痺し、21時には警察が到着したものの手が付けられる状態ではなくなっていた。暴徒は本屋改札事務室や切符売り場も破壊し始め、職員は身の危険を感じて退避し駅は無人状態となった。その後も破壊行為は続き、0時20分頃にはコンコースで放火騒ぎが起きる事態となった。動かない列車の案内板を集めて放火された火に投げ込むといった行為も見られた。新宿駅では上野駅での騒乱発生を受けて21時10分ごろより騒ぎが起こり始め、21時30分頃山手線の運行を停止、地下鉄私鉄各線への振替輸送の案内を放送したところ利用客が駅長事務室に押し掛ける騒ぎとなった。22時頃には西口の料金精算所や売店などが襲われ、東口では鉄道公安室に放火する騒ぎに発展。翌4月25日7時頃まで騒乱は続いた。新宿駅での暴動参加者は最大時には20,000人に達した。同駅の一連の騒擾と顛末は1984年に発行された『新宿駅90年のあゆみ』にも述べられているが、駅職員たちは職場から逃げ出さず、収拾に懸命で後に感謝状を出されたという。 この他、渋谷駅・秋葉原駅・有楽町駅等の計38駅で破壊・放火などの暴動事件が同時的に多発した。群衆の数は総計で32,000人を超えたとされている。一部の暴徒の中には切符・現金・売店の商品を略奪する者も現れ、被害は現金だけで1千万円を超えたとされる。また、池袋駅では群集同士の喧嘩、神田駅ではタクシーに投石をすると言った騒ぎも発生した。新橋駅では駅施設破壊によると思われるガス漏れも発生している。これに対し警視庁では22時頃、機動隊の最大動員を指令し投石などの破壊行為の阻止と、駅員・車両の保護を指令するとともに各駅長に対して駅員の現場待機を要請した。さらに23時30分頃には事件の拡大防止と列車運行確保、悪質者に対する逮捕・検挙の方針を全警察官に指令。さらに私鉄各社に電車・バスの臨時運行と終電延長を要請した。しかし同時多発した騒乱には有効な手が打てず、また群衆に恐れをなした駅員が逃げ出す事例が相次ぎ、混乱を収拾させることはできなかった。国労は21時30分、東京地本の遵法闘争を中止し、動労も混乱を緊急整備するまでは当局に協力することとした。25日以降は東京以外の地区で闘争を継続した。しかし、21時45分頃には赤羽線・京浜東北線・山手線・東北本線・高崎線・常磐線(常磐線各駅停車含む)がすでに運行を停止しており、完全に手遅れであった。多数の鉄道車両・施設が破壊された影響は大きく、首都圏では翌4月25日午前10時頃まで列車運行が全面停止。その後も大幅な間引き運転を強いられる事態となった。4月26日に国鉄が集計したところによれば、被害額は次のようになっており、磯崎叡総裁は26日の衆議院運輸委員会にて報告を行っている。国鉄の損害額その他なお、上野、神田、有楽町3駅のみどりの窓口は暫くの間営業不能の状態であり、指定券類の販売は秋葉原、東京、新橋に案内することとなった。再開は神田が5月初旬であったが他の2駅は目処がついていない状態であった。車両被害も従来に無く大規模であったため、暫くの間間引き運転を強いられた。上述のような地上設備にもわたる被害の他、全国においてはスト自体は継続されたこともあり、貨物減送の内生活必需品については、運輸省が道路運送法第34条に基づき一般の運送業者に代行輸送を命じることが決定され、4月27日より実施された。同条は災害輸送や公共生活の維持のための輸送手段が著しく不足する場合、運輸大臣が業者に代行輸送を命じることが出来る旨が定められている。代行輸送自体は上尾事件で知られる3月のストの際も実施されていたが、当時は国鉄が自主的に業者と契約する形だったのに対して、今回は法律に基づく命令であった。同条文が制定された1951年以来初の事態であった。当時国鉄は平常、生鮮食料品の急送列車を1日19本運行していたが、これらをトラックで代行すると1日500台が必要で、トラック運賃は国鉄の約10倍となり、1日辺りの経費は1億円となる。その差額は国が補償することとなった。なお、暴動やその発端となったサボタージュ闘争(4月27日にもストが実施された)の余波で、1973年のゴールデンウィーク波動輸送にも影響し、連休前半は列車の運休を引きずり旅行見合わせが相次いだ。このため前半の輸送実績は前年に比較して大幅な旅客減であり、このつまずきのため連休を利用した旅行距離も短めとなる傾向があったと言う。二階堂進官房長官はこの事件に対して談話を発表し、「国民の迷惑を顧みない違法な争議行為に対する国民の批判はいまや明らかである」「民主主義体制そのものへの挑戦であり、政府としてとうてい容認しない」と述べた。磯崎はこの事件に応じて、25日正午、次の申し入れを国労、動労に対して行った。また、当時衆議院運輸委員会では国鉄運賃の値上げについて議論が行われていたが、4月25日には地方公聴会が開催され、賛成、反対両派からストと遵法闘争に対する不満が噴出した。25日、国労は声明を出し「乗客の混乱は国労、春闘共闘の春闘を破壊しようとし、闘争の妨害をねらったものである」と主張した。鉄労は「この混乱は国労、動労の不法行為への国民大衆の怒りが爆発したものであり、この暴走を放任し、職場の秩序を崩壊させた国鉄当局の責任は極めて重大」との談話を発表した。事件の要因と対策についてはその性格上、上尾事件とまとめて分析したものが見られるため、上尾事件も参照のこと。上尾事件、遵法闘争から本格的なストに転換して失敗したスト権ストなどと共に、国労、動労の増長、暴走が背景に挙げられている。梅原淳は上尾事件に続いて「愚かな行い」を繰り返した旨の批判を行っている。スト、混雑対策の不備も利用者の立場に立っているとは言えない旨、国鉄内部の管理者から指摘された。東京北鉄道管理局営業部長星野修二によれば、度重なるストに加えて下記のような事情が利用者にマイナスに働いていたと言う。本事件は労組の行動を直接の原因としているが、当局たる首都圏本部が指摘した問題点として、輸送障害時の情報提供策不備が挙げられる。当時の首都圏本部次長は通勤五方面作戦の成果や今後の輸送力増強の必要性に触れつつ、これらの事件を「単に通勤輸送力の増強だけでは片付けられない」とした。具体的には上記の要素により社会情勢が不安定となると、危険な雰囲気が醸成される旨を述べている。事件後1975年3月、首都圏本部長交代の人事発令の際は、本社電気局長の尾関雅則が国鉄本社常務理事格で異動した経緯があった。また、尾関は前本部長の石川達二郎からの引継ぎの際「情報問題をぜひあなたの時代にやってほしい。根をつけてほしい」と言われたと言う。また、1976年当時首都圏本部工事管理室長(前東京西鉄道管理局電気部長)であった佐藤金司は、両事件を情報面から次のような総括を行っている。なお、佐藤は首都圏国電暴動の際には騒動現場に遭遇したため、直ちに西管理局に戻り、情報収集、復旧、事後の対応に当たり、暴動後の検討会に出席した経験を持つが、私見として次の事項を列挙した。このような事実から、佐藤金司は次のような教訓を導いている。なお、具体的な対策としては当時京王帝都電鉄など一部私鉄で導入されつつあったTTCが名指しで挙げられている。その他の解消策として、『鉄道経営』誌に投稿された記事では非常時の情報収集・提供能力とともに、代行輸送力の自社保有、異常時下の群集心理を研究することなどを挙げている。『鉄道通信』では部外との接触の内苦情処理について論じた際「どうもわが社の体質として、部外向け一般情報提供の重要さの認識が、うすいうらみがあるように思われる」と述べており、対策として電話による情報案内の充実を挙げている。また、現業員向けの問題点として部内向け全国一斉伝達、一斉放送の汎用設備を保有していない点も指摘された。また、器材破壊について、「なにか騒動が起きるときまって通信設備が破壊される」と述べており、その理由を旅客と常に接する場所に置いてあり、防護体制が取られていないことに求めている。対策としては器材防護の強化では限度があるため、予備品と移動器材を備えておく必要性を指摘している。事件後に行われた鉄道公安官の座談会でも、東京駅で収集に当たった公安官から「多少酒が入っていた関係もありましょうが、立派な紳士がけっこうヤジ馬になって、目の色を変えて右往左往している姿が見受けられた」と言う。当然公安室は総動員で収集に忙殺された。また、「職員が最後まで職場を守ったところは被害が非常に少なくて、危険を感じて無人となったところほど大きな被害を受けたということがいえる」「ふんまんの対象になる職員がおれば当り散らして気分もまぎれるんでしょうが、対象となる者がいないと手当たり次第、物にあたってくる」等と言った観察結果が示されている。星野は、混雑による危険が予測される場合、運転そのものの断念を提案し、下記の得失を挙げている。星野は、上記提案の採否については「何を選び何を捨てるかの取捨選択の問題」と結言に述べている。上述の情報提供面での問題は事件前よりある程度は意識されており、国鉄は事件前より「通信運用体系近代化計画」を策定中であった。鉄道電話網は主要な交換所こそ自動化されていたが、その他は依然として労働集約的な要素を強く残しているなど、情報の迅速な伝達に課題を残していたからである。計画案は1972年3月に各労組に提示され、1年の交渉を経て事件直後の1973年4月17日に妥結したため、当時起きた本事件などと絡めて紹介された。その内容は次のようなものであった。また、『鉄道通信』では「事あるごとに問題となるが、時日がたつにつれて関心がうすれてしまい、いつもそのままになってしまうようである」との教訓の忘却に対する懸念が指摘されている。青函連絡船の場合、当時の船舶は定員管理を厳密に行っており、サービス定員の概念から定員以上が乗車する鉄道からの乗換えで輸送力に差が生じ、残客が出ることは多客期には日常的であった旨、函館で収拾に当たった公安職員が述べている。函館の場合、首都圏とは異なり、「この人達は警備に出ているんだから、吊るし上げてもしょうがない」などと現業員には強硬な乗客達でも公安職員には同情的であったという。事情は仙台でも同様で「上尾のようにしてやる」「責任者を出せ」と詰め寄る者でも、公安官には同情的であった。
出典:wikipedia
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