信濃丸(しなのまる)は日本郵船の貨客船。貨客船としてより、日露戦争時に仮装巡洋艦として哨戒中にバルチック艦隊を発見し、日本海海戦での日本海軍の勝利に貢献した船として知られる。信濃丸は日本郵船のシアトル航路用貨客船として1900年4月、イギリスグラスゴーのデビット・ウィリアム・ヘンダーソン社で竣工した。当初、信濃丸は三菱長崎造船所で建造される予定だったが、先に建造していた常陸丸(日本郵船、6,172トン)建造の際にトラブルが生じて竣工が9カ月遅れたため建造スケジュールが狂い、ヘンダーソン社に発注されることとなった。常陸丸竣工遅延に伴って信濃丸建造を外注に切り替えたことなどによる莫大な諸費用は、すべて三菱が支払った。竣工後は予定通りシアトル航路に就航し、1903年には永井荷風が同船で渡米した。1904年2月6日、日露戦争開戦。信濃丸は最初、陸軍御用船として徴用されたが、同年12月には徴用解除となった。翌1905年3月15日、信濃丸は海軍に徴用され、呉鎮守府所属の仮装巡洋艦として整備された。4月に入ると信濃丸は僚艦とともに対馬尾崎湾に移動し、対馬海峡の哨戒にあたった。5月27日午前2時45分、信濃丸は五島列島白瀬西方40海里の地点を北東方向に向かって航行中、左舷側に同航する1隻の汽船を発見した。しばらく観察すると、この汽船は後マストに「白・赤・白」の信号灯を掲げていた。折りしも、東側に月が出ており、信濃丸からは見難い態勢だったので、信濃丸は西方に針路を変えて汽船の左舷側に出た。4時30分になって汽船に近寄り、相手は仮装巡洋艦と見当をつけたが、兵装が見当たらなかったので相手は病院船と推定した。そのうち、相手は信号をやり取りしていたことから、付近に別の艦船がいると判断された。信濃丸は見張りを厳にしつつ汽船に対して停船命令を発しようとしていたその時、船首左舷方向に十数隻の艦艇と数条の煤煙を発見。信濃丸は、病院船オリョール(4,500トン)に接近し、オリョールの左舷側に回った結果、オリョールとバルチック艦隊の列間に入り込んでいたのである。この時まさに午前4時45分。信濃丸は直ちに転舵し、全速力で退避。それと同時に三六式無線機にて「敵艦見ユ」として知られる通報を送信した。その後も6時過ぎに巡洋艦和泉に引き継ぐまで触接し続け、バルチック艦隊が確実に対馬海峡を目指していることを確認した。なお艦長はバルチック艦隊からの妨害電波を受けたと報告しているが、ロシア側は信濃丸に気付かなかったとされている。和泉に触接任務を引き継いだ後、信濃丸はアメリカ商船を臨検した。夕方に入り、仮装巡洋艦台南丸(大阪商船、3,176トン)と合流し対馬海峡の哨戒を続けた。※注戦史(久松五勇士)翌5月28日、信濃丸と台南丸は仮装巡洋艦八幡丸(日本郵船、3,818トン)と合流し3隻で沖ノ島北方海上で哨戒を行った。6時を過ぎた頃、信濃丸の左舷前方に戦艦と駆逐艦がいるのを発見。駆逐艦は遁走して八幡丸がこれを追跡。信濃丸と台南丸は戦闘配置を令して戦艦に近寄った。戦艦は前日の日本海海戦で損傷した海防戦艦シソイ・ヴェリキィーだった。大破していたシソイ・ヴェリキィーは全く反撃せず、ただ救助を求めるのみだった。信濃丸はシソイ・ヴェリキィーに降伏するかどうか信号で呼びかけると、降伏を了承する信号を返してきたため、信濃丸はただちに捕獲班をシソイ・ヴェリキィーに乗り込ませ、軍艦旗を掲揚して一旦は捕獲に成功した。しかし、シソイ・ヴェリキィーは前部から徐々に沈み始め、曳航も試みられたが困難となり、信濃丸は台南丸、引き返してきた八幡丸とともにシソイ・ヴェリキィー乗員の救助にあたった。シソイ・ヴェリキィーに一旦は翻した軍艦旗も撤去され、シソイ・ヴェリキィーは11時5分に対馬韓崎の東方海上で沈没した。6月14日、信濃丸は仮装巡洋艦としての役目を解かれ、6月26日に徴用解除となった。信濃丸は徴用を解除されるとシアトル航路に復帰し、1903年には永井荷風が渡米している。後に神戸・基隆間航路に転じ、1913年には孫文が同船で日本に亡命した。1923年に日本郵船の近海航路部門が独立して近海郵船が設立され、神戸・基隆間航路も近海郵船に継承された。信濃丸も移籍し、引き続き神戸・基隆間航路に就航した。1929年に北進汽船へ売却。その後、1930年に日魯漁業、1932年に太平洋漁業へと転売され、サケ・マス工船や北洋漁業の母船として活用された。太平洋漁業時代には、その頃太平洋漁業に在籍していた笠戸丸(6,209トン)などと船団を組んでカムチャッカ半島方面などで操業していたが、しばしばソ連側から領海侵犯の疑いをかけられることもあった。太平洋戦争(大東亜戦争)中は、輸送船として活躍した(笠戸丸は引き続き漁業に従事した)。しかし、陸軍の兵士として乗船した水木しげるの証言によれば、この頃の信濃丸は、触ると船体の鉄板が欠け落ちるほど老朽化が進んでいた。「浮かんでいるのが不思議」「魚雷が船底を通るだけでも沈む」と揶揄されたほどだったが、無事に戦争を生き延びた。この間の1943年に太平洋漁業が日魯漁業に合併されたので、信濃丸は再び日魯漁業に籍を置いた。(その後同社の北洋母船式鮭鱒漁の母船に「信濃丸」の名は引き継がれた。北洋母船式鮭鱒漁の母船、特に船内で最終製品である「鮭缶」の製造までを行ってしまう工船であり、名を引き継いだ他は基本的には無関係である)戦後は引揚げ船として、主にシベリアなどからの引揚者の輸送に従事し、大岡昇平も同船で復員した。1951年に船籍を解除され、スクラップとして売却され解体された。日露戦争、太平洋戦争と2度も徴用されたが戦没しなかったので、強運に恵まれた船だったともいえる。
出典:wikipedia
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