スコティ・ムーア (Scotty Moore) として知られる、ウィンフィールド・スコット・ムーア3世 (Winfield Scott Moore III、1931年12月27日 - 2016年6月28日)は、アメリカのギタリスト、セッション・ミュージシャン、スタジオ・ミュージシャン。南部テネシー州ジャクソン生まれ。ジャンルはロカビリー、ロックンロール、カントリー。ムーアは、エルヴィスと出会う前はセッション・ミュージシャンだった。エルヴィスがデビューした1954年から1958年まで、リード・ギターを担当。そのあと、エルヴィスが徴兵される。エルヴィスの除隊後は、1968年まで主にリズム・ギターを担当した。エルヴィスと別れたあとは、もとのセッション・ギタリストと活動した。1969年以降は、ジェームス・バートンがエルヴィスのギタリストとなった。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第44位、2011年の改訂版では第29位。スコティはテネシー州のジャクソンの近郊で生まれた。父親や兄弟たちがカントリー・アンド・ウェスタンのバンドを組んでいたので、スコティも自然に音楽へ親しんでいった。8歳の頃、初めてギターを買ってもらい、練習を繰り返した。1948年、スコティは海軍へ徴兵され、入隊。その頃、ワシントンのラジオ局の流すバンドに参加した。除隊後は兄弟が経営していたクリーニング屋を手伝いながら「スターライト・ラングラーズ」という名のバンドを結成。そのバンドにはビル・ブラック(ベース)も参加していた。1954年の6月に代理歌手として呼んだエルヴィスと対面し、7月に「That's All Right, Mama」を作成、ローカル・ヒットした。その後はエルヴィスと共にロックンロール・ミュージックの先駆けとなった。レコード以外にもエルヴィスの主演映画にギタリストとして数作品に参加している。しかし、初主演作の「やさしく愛して」のサウンドトラックではギターから外されてしまった。この経緯はバンド・オーディションを受けた時、スコティたちはこの映画の内容を知らず、カントリーが使われることを知らずに通常のロカビリー曲を弾いた。スコティはもともとカントリー・ミュージシャンなので軽いものだったはずが、これが仇となってか外されてしまった。スコティはもちろん、エルヴィスも傷ついたようだ。その背後には色々なショウビズ取引もあったとされている。エルヴィスのサン・レコードとの契約が切れ、スコティもエルヴィスと共にRCAへ移行したが、サン・レコードでの独特なサウンドでのエルヴィスの基盤は失われていった。スコティはこのことに対して、「サム(サンの創業者)はどんなことにでも挑戦するタイプの人間だったが、RCAのスタッフは違う。組織人間であったし、クリアなサウンドを好んでいた」と語っている。スコティがエルヴィスと最後に会ったのは1968年の「カムバック・スペシャル」であった。スコティはその番組の一部、「シットダウン・ショウ」に参加した。気の合う仲間同士でのギグは本当に楽しかったようだ。エルヴィスはこの後、一緒にツアーをしたいと語ったが、実現はしなかった。この番組後、エルヴィスとスコティは一切連絡を取り合わなくなってしまったようだ。特に避けていたわけでもトラブルがあったわけでもなかったのだが。エルヴィスが69年にラスベガスでコンサートを行なった時、スコティやD.J.フォンタナはエルヴィスから出演依頼を受けていた。しかし、当時、スコティはスタジオでレコーディングを行なっていた。1日に何度もセッションをこなす多忙なスケジュールであった。ラスベガス公演は2週間の予定で、しかもエルヴィスはその後も公演を継続するかは未定であった。スタジオのギターを辞めて、参加し、その後公演がなければ、金銭面でのダメージが大きいと冷静に判断し、行きたい気持ちに逆らって、断念した。チェット・アトキンスがスコティのもとを訪れたとき、デスクに置いてあった立派な置物に感心し、譲ってもらうことになった。そのお礼としてチェットはギブソンから発売されていた自身のモデルのギター、カントリー・ジェントルマンを置いて帰った。スコティはそれ以来、このカントリー・ジェントルマンをメイン・ギターとして愛用した。ロック界では、ジョージ・ハリスン、キース・リチャード、ジェフ・ベックらがムーアの影響を受けている。2000年、ロックの殿堂入り(サイドマン部門)を果たした。2016年6月28日、テネシー州ナッシュビルの自宅で逝去。84歳没。
出典:wikipedia
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