『眠れる森の美女』(ねむれるもりのびじょ、露(原題): )は、ピョートル・チャイコフスキーの作曲したバレエ音楽(作品66)、およびその音楽を用いたバレエ作品。クラシック・バレエ作品の最も有名なものの1つに数えられる。ロシア語や英語の題は忠実に翻訳すれば『眠れる美女』であり、また日本語では『眠りの森の美女』とも訳される。台本はシャルル・ペローのおとぎ話『眠れる森の美女』(仏語:)に着想を得て書かれた。チャイコフスキーのバレエ音楽の中で最も演奏時間が長く、全曲を通した上演には普及している縮小版でも優に2時間を要し、原型に基づく上演の場合、上演時間は3時間に及ぶ。サンクトペテルブルクの帝室劇場総裁イワン・フセヴォロシスキーがチャイコフスキーに、ペローのおとぎ話『眠れる森の美女』に基づくバレエの音楽が欲しい、と手紙を書いたのは1888年5月13日()のことだった。それまでチャイコフスキーのバレエ音楽の作曲の経験は『白鳥の湖』だけであり、しかもライジンガーやハンセンが振付けてモスクワのボリショイ劇場で初演したバレエ『白鳥の湖』は、当時ほとんど歓迎されることのない作品となっていた。その後8月22日にやっと台本を手にしたチャイコフスキーは、ためらうことなく新作バレエの作曲を引き受けた。『眠れる森の美女』の作曲に当たってチャイコフスキーが取り組んだ台本は、ペローの童話を基にフセヴォロジスキーが書き下ろしたものとされている。王女の両親(国王と王妃)が娘の100年の眠りを生き長らえて、眠りから覚めた姫の晴れの婚礼を見届けるという部分や、王子のキスで目覚める部分などはグリム童話の「いばら姫」に近いが、フセヴォロシスキーはペローやオーノワ夫人などフランスの童話のいくつかの話も台本に取り入れた。ともあれチャイコフスキーはフセヴォロシスキーに、この台本を読んで大いに感動し、それを最高に生かす良い着想を得たことを嬉々として伝えた。振付を担当したのは、ロシア帝室バレエの比類ないバレエマスター(振付・演出家)マリウス・プティパであった。プティパは作曲に必要な指示を詳細に書き、その指示に従ってチャイコフスキーはこの新作を、フロロスコエの自宅ですばやく書き上げた。1888年の冬に草稿に着手し、オーケストレーションを開始したのは1889年5月30日であった。作品の焦点は、明らかに善の力(リラの精に象徴される)と悪の力(カラボスに象徴される)との葛藤に置かれており、それぞれを表すライトモチーフが話の筋を強調する重要な撚り糸として機能しながら、バレエ音楽全体を貫いている。しかしながら第3幕では、その2つのライトモチーフはすっかり息を潜めて、その代わりに様々な宮廷舞曲の1つ1つの性格に力点が置かれる。なぜ2つのライトモチーフが第3幕で息を潜めるのかは昨今の縮小版バレエでは分からないが、原作を見ればその意味がわかる。アレクサンドル3世は皇族をつれてゲネプロ当日にこれを観覧し、立ち去り際に、たった一言「とてもいい」と言い残した。チャイコフスキーは、もっと好意的な反応を期待していたので、その言葉に苛立ったという。初演は1890年1月15日()にマリインスキー劇場において行われ、『白鳥の湖』よりも好意的な評価を報道された。だがチャイコフスキーは、この作品が海外の劇場で大ヒットする栄光の瞬間を味わうことはできなかった。チャイコフスキーは1893年に他界する。それから10年後の1903年までに、『眠れる森の美女』は帝室劇場で1番人気のチェザーレ・プーニ作曲・プティパ振付の『ファラオの娘』に次ぐ地位を得た。サンクトペテルブルクで活躍したイタリア人バレリーナが帰国して行ったミラノ・スカラ座における上演は評価されず、『眠れる森の美女』が国際的に古典的なレパートリーとして不朽の地位を射止めたのは、ようやく1921年のロンドン公演においてであった。ただし、それはチャイコフスキーとプティパが作った『眠れる森の美女』を基にしながらも異なる部分があり、また、ロシアにおいても革命・ソ連時代を経て異なるものに変わっていった。原作がどういうものであったのかが分かったのは、1999年4月30日、ロシア、サンクトペテルブルクのマリインスキー・バレエが復原版を上演したときのことである。なお、原作バレエの上演前にアレクサンドル・ジロティによってピアノ独奏版、1892年にジロティとチャイコフスキーの監修を受けたセルゲイ・ラフマニノフによる連弾版が出版されている。また演奏会用組曲(作品66a)が存在するが、これはジロティが作曲者に提案の上で編纂したものとされる。フロレスタン14世の娘、オーロラ姫の誕生により、盛大な洗礼の式典が行われている。6人の妖精たちの一行が招待を受けて、彼女の名付け親となるべくやってくる。夾竹桃の精、三色ヒルガオの精、パンくずの精、歌うカナリアの精、激しさの精、そして一番偉い善の精、リラの精である。まず国王が妖精たちに贈り物をし、妖精たちがそれぞれオーロラ姫に授け物をする(正直さ、優雅さ、繁栄、美声、および寛大さなどを授けた、とする改訂版もある)。その時、邪悪な妖精カラボスがやってくる。カラボスは自分が洗礼に招待されなかったことに怒り狂い、オーロラ姫に次のような呪いをかける。「オーロラ姫は、20回目(改訂版では16回目)の誕生日に彼女の指を刺して、死ぬでしょう。」しかし幸運にも、リラの精だけはまだ姫に何も授けていなかったため、次のように宣言する。「カラボスの呪いの力は強すぎて、完全に取り払うことはできません。したがって姫は指を刺すでしょうが、死ぬことはありません。100年間の眠りについたあと、いつか王子様がやってきて、彼の口づけによって目を覚ますでしょう。」オーロラ姫はすくすくと成長し、20歳(16歳)の誕生日を迎えた。その誕生日に編み物をしている娘たちを見て国王は激怒する。オーロラ姫を守るために編み物・縫い物は禁止していたためだ。しかしめでたい祝いの日なので国王は怒りを鎮めて祝宴を始める。オーロラ姫には4人の求婚者がおり、彼らがバラを姫に手渡したそのすぐ後、姫は何者かからつむを贈られる。彼女は尖ったものに気をつけるようにという両親の忠告にも関わらず、それを持ったまま楽しそうに踊る。そして誤って指を刺してしまう。カラボスは、すぐに邪悪な本性を明かしながら、勝ち誇り、驚く賓客の前で姿を消す。同時にリラの精が約束通りやってきて、王と王妃、そして賓客たちに、オーロラ姫は死ぬのではなく眠りにつくのだということを思い出させる。リラの精は城にいた全員に眠りの魔法をかける。オーロラ姫が目覚めるその時に、目を覚ますように、と。それから100年が経った頃、デジレ王子が一行を率いて狩りを行っていた。王子は狩りが楽しくなかったため、1人になりたいと申し出て、一行から離れる。そこに突然リラの精が現れて、オーロラ姫の幻を見せられた王子はその美しさの虜となる。王子はリラの精にオーロラ姫の元へ連れて行くよう頼み込み、今や太いツルが伸び放題でからみついている城にたどり着く。リラの精はオーロラ姫の名づけ親だが、デジレ王子の名付け親でもあった。王子は城の中に入り、中で眠っているオーロラ姫を発見し、王子のキスによってオーロラ姫は目を覚ます(原作は非暴力的で愛すること・考えることを重視するが、改訂版では邪悪なカラボスを打ち負かす、といった展開もある)。彼女が目を覚ましたため、城にいた全員が目を覚ます。王子は姫への愛を告白し、結婚を申し込む。婚礼の仕度は整った。祝祭の日にさまざまな妖精たちが招かれている。結婚を祝福するのは、金の精、銀の精、サファイアの精、ダイヤモンドの精である。リラの精もカラボスも出席している。「長靴をはいた猫」や「白猫」などのおとぎ話の主人公たちも来賓として居合わせている。華麗なダンスが次々に踊られる。4人の(宝石・貴金属の)妖精のパ・ド・カトル、2匹の猫のダンス、青い鳥とフロリナ王女のパ・ド・ドゥ、赤ずきんちゃんとおおかみの踊り、シンデレラ姫とフォルチュネ王子のダンスが披露され、(一般的には省略されるサラバンドの後を受けて、)オーロラ姫とデジレ王子のパ・ド・ドゥが続き、最後にマズルカで締め括られる。オーロラ姫と王子は結婚し、(リラの精が2人を祝福する、という改訂版もあるが、原作では)妖精たちを讃えるアポテオーズの中で人々は妖精たちに感謝を表し、リラの精やカラボスなどの妖精たちが人々を見守るうちにバレエは終わる。ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コーラングレ、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、コルネット2、トランペット2、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ(4個)、大太鼓、小太鼓、タンブリン、シンバル、タムタム、トライアングル、グロッケンシュピール、ピアノ、ハープ、弦五部以下は初演時の台本に基づく。台本はフランス語で記されている。1922年にセルゲイ・ディアギレフは、自前のバレエ団バレエ・リュスのために、『眠れる森の美女』を45分の長さに短縮し、『オーロラ姫の結婚』と名付けた独自の版を編み出した。この編曲では、第1幕の導入部と、第3幕のほとんどを結び付け、その他の部分を混ぜたものとなっている。この短縮版は、レオポルド・ストコフスキーによって上演・録音されており、デジタル録音ではシャルル・デュトワ指揮の録音がある。楽曲の配列は以下の通りである。
出典:wikipedia
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