アレクサンドル・ケルジャコフ(, 1982年11月27日 - )は、ロシアのサッカー選手。ポジションはフォワード。FCチューリッヒ所属。2001年、ロシアのアマチュアチーム、スヴェトゴレツ・スヴェトゴルスクからロシア・プレミアリーグのFCゼニト・サンクトペテルブルクに移籍。ここでレギュラーポジションを掴み取ると、2002年以降はアンドレイ・アルシャヴィンと2トップを組む機会が増えた、2003年にチェコ人指揮官、ウラスティミル・ペトルジェラに重宝され、2004年にはロシア・プレミアリーグの得点王を獲得、UEFAカップでの活躍もあり、国外の複数のクラブから注目を集めるようになる。しかし、ディック・アドフォカート監督就任以降、折り合いが悪くなり、構想から外れたことで移籍を志願した。2006年12月28日、セビージャFCに500万ユーロで移籍。契約期間は5年半と長期の契約だった。移籍1年目のシーズンではルイス・ファビアーノ、フレデリック・カヌーテに次ぐ3番手のFWであった。2007年1月14日のRCDマヨルカ戦でリーガ・エスパニョーラデビューを果たし、同月28日のレバンテUD戦 (4-2)で初得点を挙げた。このシーズンでは15試合に出場し、3得点を挙げるまずまずの成績を残したが、2年目はセビージャの監督であったファンデ・ラモスの退団と共に出場機会が激減。エルネスト・ハビエル・チェバントンとアルナ・コネの加入もあり、5番手のFWに降格していた。UEFA EURO 2008を見据えて、2008年2月にFCディナモ・モスクワへ移籍することとなった。ディナモ・モスクワではすぐにファーストチョイスのFWとなったものの、戦術上の理由で本職ではない右サイドで起用されることも少なくなかった。2010年1月16日、古巣ゼニトへの復帰が発表された。チームは転換期を迎えた最中で、パヴェル・ポグレブニャク退団以降頼れるFWが不在だったため、ケルジャコフに懸かる期待が大きかった。重要な試合で得点を重ね、ゼニトを3年ぶりのリーグ制覇に貢献するとともに自身もチーム内得点王(13得点)に輝いた。2012-13シーズンの夏の移籍市場で獲得したフッキやアクセル・ヴィツェルの高額年俸に異を唱え、前週の練習を無断で欠席したうえ、9月26日のクリリヤ・ソヴェトフ・サマーラ戦でも出場を拒否したケルジャコフは、今回の発言に先立つ23日、共闘して抗議を行ったチームメイトのイゴール・デニソフと共にリザーブチームへの降格を言い渡された。しかし28日に謝罪し、トップチームに復帰している。2015-16シーズンは、スイスの強豪FCチューリッヒにローン移籍した。2002年3月27日、エストニア代表戦でロシア代表デビューを果たした。さらに同年に開催されたワールドカップのメンバーにも選出され、グループH、ベルギー戦 (2-3)で途中出場し、ドミートリー・シチョフの得点をアシストした。ワールドカップ終了直後の同年8月21日のスウェーデン戦 (1-1)で代表初得点を挙げる。UEFA EURO 2004予選では7試合に出場し、2得点を挙げたが、UEFA EURO 2004のエントリーメンバーには選出されたものの、ドミートリー・キリチェンコ、ドミトリ・ブリキン、シチョフに次ぐ4番手のFWに甘んじ、ポルトガル戦のみの出場に終わった。当時の所属クラブのセビージャで控えに甘んじていたのを受け、ディナモ・モスクワへ移籍したものの、ベストコンディションには程遠く、UEFA EURO 2008のメンバーには、予選でチーム最多得点を記録したものの落選した。その後は少しずつ調子を取り戻し、2009年6月のフィンランド戦で1年4か月ぶりに代表に返り咲くと、2得点を挙げる活躍をみせた。2009年11月18日のスロベニア戦 (0-1)で、ロマン・パヴリュチェンコとの交代で後半から出場し、代表通算50試合出場を達成した。しかし後半20分、スロベニアGKサミール・ハンダノヴィッチと交錯した際に相手を蹴ったとして一発退場となり、チームも2010 FIFAワールドカップ本大会出場を逃すなどほろ苦い50試合目となった。2010年にゼニト時代折り合いが悪かったアドフォカートがロシア代表の監督に就任し、招集が懸念されていたが、その後は関係が改善され、パヴリュチェンコ、ポグレブニャクを抑えてファーストチョイスのFWとなった。
出典:wikipedia
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