サドベリー・スクール(サドベリー教育)()はアメリカのボストンにあるサドベリー・バレー・スクールに共感し同じ理念の下で運営している世界中の学校の総称である。別名はデモクラティックスクールだが、サドベリースクールのモデルとは違った形態のデモクラティックスクールも存在する。サドベリー・スクールの先駆的存在であるサドベリー・バレー・スクールは、1968年に創設されて以来、数多くの学校や団体にとってその方針やアイデアを考える際の拠り所となってきた。2008年現在、世界には約40校のサドベリー・スクールがある。サドベリー・スクールはフリー・スクールとある面では類似しているが、明確に異なる諸側面ももっている。サドベリー・モデルの中心的な特徴は、生徒はルールの範囲内で自由に行動できること、またそのルールを学校参加者自身(主に生徒とスタッフ)により決定していくことである。それによりサドベリー・スクールでは、生徒は学ぶべき内容を学校から押し付けられるということがなく、自らの好奇心のおもむく事をルールの範囲内で追求することができる。また子どもたちを「クラス」に分け、「クラス」単位で行動するように強制することはしない。このようなサドベリー・モデルの特徴はその教育モデルの基本的な信念に由来している。その信念とは、子どもは生きていく上で必要のあることは自分で学んでいくことができる、という考えである。サドベリー・スクールでは、学校の管理への保護者の関わりは限定的である。サドベリー・スクールは生徒とスタッフだけが参加できる「スクール・ミーティング」によって民主的に運営される。スクール・ミーティングでは、生徒とスタッフの立場は互いに対等である。保護者は年に最低一度開かれる総会にて学校運営に関わることができる。またサドベリー・スクールはすべての年齢の子どもたちが一緒に過ごすことによって生徒たちの学びと成長が促されると考えており、恣意的に生徒たちを年齢によってグループ分けすることはしない。すべてのサドベリー・スクールは週に一度行われるスクール・ミーティングによって運営されている。スクール・ミーティングは年に一度行われる全校集会(School Assembly)と連携している。これらのミーティングは伝統的なニューイングランドのタウン・ミーティングを手本にしている。多くのサドベリー・スクールは「ロバートの議事手続き」()を用いてスクール・ミーティングを運営している。ミーティングには議長と書記がいる。サドベリー・スクールの管理に関わるすべての事柄は最終的にはスクール・ミーティングによって決定される。その週の議題は、学校のルールの変更から予算、スタッフの雇用・解雇にまで及ぶ。出席しているすべてのメンバーには平等な投票権が与えられ、ほとんどの決定は多数決によって行われる。生徒とスタッフの投票権も平等である。サドベリー・スクールの運営に関わるいくつかの事柄は、スクール・ミーティング以外の責任者・機関に委ねられることもあり、それによってスクール・ミーティングは細かな事柄に振り回されることがなくなる。これらの責任者・機関には、管理の仕事を行う書記(スタッフからも生徒からも選ばれる)、ヴォランティアから成る委員会、コーポレーションなどが含まれる。一部の生徒たちがスポーツやコンピュータなどある分野の活動に興味を持ったときには、スクール・ミーティングによってその活動への協力者が組織されるが、彼らもこの責任者に含まれる。ほとんどのサドベリー・スクールは、他のメンバーへの嫌がらせや暴力、任された責任を放棄するといったルール違反を扱う委員会、例えば選任された生徒とスタッフから構成される司法委員会やヴォランティアから成る司法スクール・ミーティングなどを設置している。司法委員会にはメンバーからの訴えを取り扱う一連の手続きが存在し、多くのサドベリー・スクールはデュー・プロセス・オブ・ローを尊重したガイドラインに従っており、そこでは取り調べ・聴聞・裁判・抗告を考慮することが要請される。たいていのサドベリー・スクールは法律書を発展させており、それらの法律は数年から数十年にわたる変遷をたどった学校の方針のあらましを示している。それらすべての法律はスクール・ミーティングによって再吟味されており、安全・個人の行為・学校の管理などの事柄に関連するルールを扱っている。サドベリー・スクールは10代までの子供を受け入れており、彼らの多くは年齢が5歳から19歳までの間である。サドベリー・スクールでは年齢によって生徒が分けられることはなく、どの生徒も自分とは違う年齢の生徒と自由に交流できる。これは、日本の過疎地での複数学年が混合した授業を行う公立学校と類似している。教育についてのサドベリー・モデルの中心的な信念は、すべての生徒は自分が望むように時間を使うことができるべきであり、特定のどの教科も強制されるべきではない、というものである。サドベリー・モデルの考えは、成功した大人になるために、あるいはよりよい社会を作るために子どもが学んでおかなければならない一連のカリキュラムが存在するという考えとは真っ向から異なる。サドベリー・モデルは、生徒が学ぶ方法は多く存在するのであり、生徒が選ぶテーマの善悪を大人が判断しないことによって生徒たちは日々自由に自分の勉強の方針を作ることができる。クラスや他の活動の計画はいつも自発的かつ自由な選択によって作られており、生徒もスタッフもクラスを開催することができる。生徒は一度もクラスを取らなくてもよい。「クラス」という言葉は多くのサドベリー・モデル・コミュニティの中で使われているが、誤解を招くかもしれない。サドベリー・モデルの提唱者の中には、「興味・関心が共通したので自発的に形成されたグループ」と呼ぶ方がより正しいと考える人もいる。美術室・音楽室・図書館など特定の用途のために指定された場所もサドベリー・スクールの中にはある。ほとんどの場所はどの生徒も自由に使ってよいが、安全に使用できる技能をもつことを証明しなければ使うことが出来ない道具もある。サドベリー・スクールの多くは、例えばミシンや木工用の備品を使うための認可を得ている。政府や学校などで一様に採用されている独裁的権威よりも、サドベリー・スクールのように団体のすべての構成員に基盤を持つ権威の方が秩序を維持できるとサドベリー・スクールの関係者は主張している。その主な理由は、ルールと規則が共同体全体によって作られており、それゆえこの学校には反抗よりも説得と交渉の雰囲気があるからである。反抗しようにも反抗しなければならないものがそこにはない。サドベリー・モデルのデモクラティック・スクールを経験して分かることは、学校全体によって公正かつ民主的に可決された法律と、その法律を施行する十分な法体系をもつ学校においては、共同体の規律が浸透し、法と秩序が非常に洗練され発展するということである。これは、恣意的な規則・絶対的な権威・気まぐれな処罰・デュー・プロセス・オブ・ローの不在という特徴をもつ今日の学校と異なる点である。。サドベリー・スクールの関係者は、外面的な秩序・規則の形態よりもずっと重要なことは、個々人の内面的な規律が育まれているかどうかの問題であると強調する。その問題は、言い換えれば、どのような環境であれば人は、内面の強さと、人生に秩序と一貫性をもたらす性格を発達させるのか?どのようにすれば人は、平等な市民から成る自由な共和制国家にふさわしい独立した人間、合理的で首尾一貫した考え方の枠内で決断できる人間、相互に敬意を持つ人間関係を築く人間となれるのか?という問題なのである。。このような諸特徴をそなえた責任感のある人間になるにはどうすればいいのかということについて、サドベリー・モデルのデモクラティック・スクールは以下のように主張している。独立した人間とは責任に耐えることのできる人間のことだが、責任感のある人間がもつ諸特徴を身につけたり伝授したりするテクニックは存在しないし、大人が自己満足のためにそれらを教えることもできない。自分に責任をもつようになるためには、留保なしに自分に責任をもつようにならなければならないのである、と。。世界中にあるサドベリー・スクールのモデルであるサドベリー・バレー・スクールは、過去40年の間に彼らの卒業生に関する調査書を二回発行している。その報告の中で特筆すべきことは、卒業生の約8割は大学を卒業しており、また人生の様々な領域で成功しているということである。人生に対する満足度も比較的高い。
出典:wikipedia
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