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玉井義臣

玉井 義臣(たまい よしおみ、1935年2月6日 – )は、日本の社会運動家、教育者。「あしなが育英会」創始者・会長、「心塾」創立者・塾長。1935年2月6日、大阪府池田市に生まれる。大阪府立池田高等学校を卒業後、滋賀大学経済学部に入学し、1958年に卒業。証券会社勤務等を経て、経済評論家として文筆活動に入る。1963年、母親が交通事故に遭ったことを契機に「交通評論家」としての活動を開始(母親は昏睡状態のまま36日後に死去)。また、妻も20代で脊椎ガンにて下半身不随となり、2年半後に死別。これらふたつの「死」が、玉井の「あしなが運動」の原点となる。「あしなが運動」開始後は、自賠責保険の支払限度額引き上げなどの問題提起を行い、1966年からは「桂小金治アフタヌーンショー」(NET)で週1回行われた「交通事故防止キャンペーン」コーナーにレギュラー出演し、各界関係者と議論を戦わせ刑法211条改正実現等に尽力した。1968年10月、姉と甥をやはり交通事故で亡くした岡嶋信治らとともに、数寄屋橋で「交通遺児をはげます会」の旗揚げ街頭募金を行う。その後、交通遺児・遺族による文集『天国にいるおとうさま』が反響を呼び、衆議院予算委員会において異例の決議が行われ、翌1969年に財団法人交通遺児育英会が設立される。自身は専務理事に就任し、会長にはかつて「アフタヌーンショー」で玉井と激しい議論を交わした永野重雄が就く。玉井には有能な人材を発掘・リクルートする特異な才能があり、育英会の若手活動家の中には後に国会議員となる山本孝史・藤村修らがいた。1978年、東京都日野市旭ヶ丘に遺児のための学生寮「心塾」(2006年2月より「あしなが心塾」)を設立し、教育者としての道を本格的に歩むことになる。1990年に朝日新聞社から「朝日社会福祉賞」を授与される。この頃より、玉井の災害遺児救済運動への関与について、交通遺児育英会内部から「背信行為」などと攻撃する動きが現われる。その内部の人事においてはたびたび「官僚の天下り」疑惑が指摘されており、その天下り人事に対立した玉井は1993年、純粋な民間の組織として新たに「あしなが育英会」を設立する(会長には新日鉄社長を務めていた武田豊が就任し、自身は副会長)。1994年に反玉井派の中心人物と目されていた宮崎清文(元総理府総務副長官)が交通遺児育英会の理事長に着任したことに伴い、同会専務理事を退任。社会学者の副田義也はこの件に関して、「自らが育てた交通遺児育英会を天下りしてきた高級官僚OBに乗っ取られ」と表現した。1995年1月17日、阪神淡路大震災発生。以後はローラー調査と震災遺児のケアに奔走する。1998年「あしなが育英会」会長就任。1999年、世界150ヵ国以上の国々と日本全国から寄付を募り、遺児のケアを目的とした神戸レインボーハウスを設立。21世紀に入ってからは世界的規模による絶望的貧困削減を目指し、開発途上国にもレインボーハウスを設立。また、ニューヨークやアフガニスタン、イラクなどの世界各地から、戦争遺児・テロ遺児・エイズ遺児・災害遺児を招き、国際交流会を頻繁に開催する。2010年6月、集大成となる『だから、あしなが運動は素敵だ Psycho Critique 13』(批評社 ISBN 4826505272)を上梓。

出典:wikipedia

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