立嶋 篤史(たてしま あつし、1971年12月28日 - )は、日本の男性キックボクサー、キックボクシングジム「ASSHI-PROJECT」主宰(経営者)。東京都豊島区出身。1990年代前半に活躍。1993年にはライバル前田憲作にKO勝利するなど「立嶋ブーム」を巻き起こした。日本キックボクシング界最初の1千万円プレーヤーであり、カリスマと呼ばれた。得意技は右ローキックと肘打ち。幼少の頃からいじめを受け、小学生の時に自殺を考えるも思いとどまり中学2年生でキックボクシングと出会う。習志野ジムに練習生扱いとして所属、中学卒業後単身タイに渡りムエタイの修業をする。1987年8月、非公式ながらタイのランシット・インターナショナルボクシングスタジアムでデビューを果たした。帰国後の1988年7月、16歳で後楽園ホールのリングに上がりKO勝ちで日本公式デビュー。1989年に17歳で高校を再受験し合格、千葉工商高等学校(現・敬愛学園高等学校)に入学。試合と試験日程が重なることがあり単位が不足して一度留年ののち、1993年に卒業。高校在学中にフェザー級王座獲得や、清水・山崎とのフェザー級頂上決戦を制したことなどから、「地上最強の高校生」としてマスコミから注目が集まり、格闘技と無縁な一般雑誌の表紙にも登場し話題となった。1991年4月、全日本キックボクシング連盟フェザー級王座決定戦にて椿宗徳と対戦。2ラウンドTKO勝ちで初のタイトルを獲得(第11代全日本フェザー級王者)。同年7月、WKAフェザー級王座決定戦にてビクター・ソリエル(プエルトリコ)と対戦。不慣れなWKAルールと、ソリエルの的確な強打のために一方的な展開となり、2ラウンドKO負け。王座獲得に失敗。1992年3月、前・全日本フェザー級王者でWKAスーパーバンタム級王者の清水隆広と対戦。ローキックによる3ラウンドKO勝ちで、事実上の全日本フェザー級トップ選手となる。同年5月、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟ライト級1位(同・前フェザー級王者)の山崎路晃(山崎通明)との団体対抗戦にも判定勝ち。同年7月、全日本フェザー級タイトルマッチにて前田憲作と対戦。判定負けで王座防衛に失敗。1993年11月、全日本フェザー級タイトルマッチにて王者・前田憲作と対戦。3ラウンドKO勝ちで王座に復帰(第13代全日本フェザー級王者)。1994年7月、全日本フェザー級タイトルマッチにて佐藤孝也と対戦。2ラウンドKO負けで王座防衛失敗。1995年7月、全日本フェザー級タイトルマッチにて王者・佐藤孝也と対戦。判定勝ちで王座に復帰(第15代全日本フェザー級王者)。1996年3月、全日本フェザー級タイトルマッチにて鈴木秀明と対戦。判定負けで王座防衛に失敗。1997年3月、全日本フェザー級王座決定トーナメント準決勝にて、佐久間晋哉と対戦。判定負け。谷山ジムに移籍し(13年後に同ジムが中核となったビッグバン実行委員会旗揚げ興行でEXで対戦の)土屋ジョーと同僚に。東京ドームで行われたK-1 JAPANフェザー級GP'97には全日本キック代表として出場期待されたが拒否。1999年3月、全日本フェザー級王座決定トーナメント1回戦にて、高田英樹と対戦。5ラウンドKO勝ち。同年6月、全日本フェザー級王座決定トーナメント準決勝にて、増田博正と対戦。判定負け。11月30日谷山ジムの全日本キック円満離脱に伴いRIKIジムに円満移籍。2001年10月、全日本フェザー級タイトルマッチにて王者・杉上直之と対戦。2ラウンドKO負けで王座獲得に失敗。2001年、長年所属した全日本キックボクシング連盟から離脱。以後はニュージャパンキックボクシング連盟、その後にはIKUSAに参戦。2003年12月、自転車で練習に行く途中に交通事故に遭い全治11か月の重傷を負った。2009年9月20日、6年3か月ぶり37歳での復帰戦となった新日本キックボクシング協会「TITANS NEOS 6」で小野智史と対戦し、2-0の判定勝ちを収めた。2010年4月18日、新日本キックボクシング協会「TITANS NEOS VII」で深津飛成と対戦し、TKO勝ちを収めた。2010年9月11日、新日本キックボクシング協会「TITANS NEOS VIII」で田中義人と対戦し、0-3の判定負け。復帰後3戦目での初黒星となった。2011年1月23日、REBELS初参戦となったREBELS.6で梅原ユウジと対戦し、0-3の判定負けを喫した。キックボクシングジム「ASSHI-PROJECT」(アッシ・プロジェクト)を開き、後進を育てている。所在地は千葉県船橋市(京成本線船橋競馬場駅)である(2008年7月に当地に移転)。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。