伊藤 信夫(いとう のぶお、1972年9月17日 - )は、日本のオートレース選手。静岡県出身。24期、浜松オートレース場所属。浜松工業高等学校卒業この年の後期S1。以降現在までS1を維持。伊藤信夫は、名実共に『浜松のエース』と評される選手である。それまで長らく鈴木辰己(13期)が牙城を守っていた浜松でデビュー直後から才能を見せ、1級車に乗り換わった1997年には早くも地元浜松でGIを制覇。初日のスーパードリーム戦では当時最強の片平の20M前、地元主力級の10M前のハンデ位置であったが、スタートで青島正樹(22期、浜松オートレース場所属)に叩かれたものの道中逆転で10Mハンデ重化。勢いに乗り優勝戦では最重ハン最内から見事記念競争初優勝を遂げ、浜松の超新星として注目を集めた。1999年に3.284秒という日本レコードタイムでSGを制覇し、エースの座を確実なものとした。その後も現在に至るまで浜松を牽引する選手である。このレコードタイムは現在も更新されることはなく、タイヤが変わった今ではこの記録を破るのは不可能であると多くのファンは考えている。スピードレースに対して強い思い入れがあり、常に高速戦をモットーとしている。勝負が掛かったレースで見せる抜群のスタートの切れと単騎での豊かなスピードが持ち味。全レースハンデなしのオープン戦で行われるオートレースの最高峰レース日本選手権では7年連続での優出がある。2005年9月、収支悪化が原因で浜松市が浜松オートレース場の廃止を検討し始めた。これに対して浜松所属の選手、開催従事員等の関係者、そしてオートレースファンが一斉に反発。伊藤は自らブログを立ち上げてアピールを開始すると共に、レース非開催の日には浜松市街に出て署名運動を行った。この時開設したブログは、プライベートの話やレースの話、競走車にまつわる話、そして存廃問題に関する話、特に浜松市側の対応の悪さや公共事業に関する疑問、政令指定都市化の為の投資への反対意見。そして何より、浜松市民が昔から抱いているオートレースとそれに携わる人々に対する偏見を払拭しようと懸命に活動した。こうした活動を後押しするように全日本オートレース選手会が存続を求める署名活動を行った。その結果、船橋オートレース場と共に2006年4月に日本トーターへの民間委託が開始された。2006年3月29日、この日の優勝戦で伊藤は落車した。この際に左大腿骨を骨折するという重傷を負ってしまう。本人曰く「死を覚悟した」とまで言わしめたこの事故は凄惨なもので、この事故以降伊藤は療養生活に入ったが、その間もブログの更新を継続していた。しかし、結局、伊藤はブログの更新を停止してしまう。8月24日負傷の癒えた伊藤はレースに復帰した。復帰当初は精彩を欠いていたが、11月5日のSG第38回日本選手権オートレースでは、準決勝戦で不利とされる大外枠から好スタートを切り2着に食い込み優出。そして、最内からの好スタートで2着入線、惜しくも準優勝だったが復活の兆しを見せた。その後、苦手としていた川口オートレース場で初の優勝を飾ると俄然勢いを取り戻し、2007年2月12日のSG第20回全日本選抜オートレースで先の日本選手権の覇者である田中茂(26期、飯塚オートレース場所属)を持ち味の圧倒的なスピードで破り復活の優勝を飾った。近況は、復活後のさらなる事故により混戦での捌きに不安を抱え、持ち前のスピードにも陰りが見える。長らくグレードレースでの優勝から遠ざかるが2010年4年振りとなるGIIでの優勝で復活の狼煙を上げた。浜松のファンはもう一度SGレースを制覇することを信じてやまない。地元浜松の後輩、木村武之と同期の山陽所属の濱野淳が整備仲間。2006年の第38回日本選手権オートレースでは3人揃っての優勝戦進出を果たした。
出典:wikipedia
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