ファブリツィオ・バルバッツァ(Fabrizio Barbazza 1963年4月2日-)は、イタリアのレーシングドライバー。ファブリッツォ・バルバッツァと表記されることもある。1996年に引退した。元々はモトクロスレーサーとして活動していたが、4輪に転向。1983年よりイタリアF3に参戦を開始し、3年目の1985年には4勝を挙げ、ランキング3位となった。その後、1986年よりアメリカで活動、この年アメリカン・レーシング・シリーズ(現インディ・ライツ)で4勝を挙げてチャンピオンに輝いた。翌1987年はCARTに参戦、インディ500で3位に入るなどの活躍でランキング12位に入り、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。また国際F3000にも1戦参戦したが、予備予選落ちに終わっている。1988年は国際F3000に5戦出走するが、特筆すべき結果は残せず。翌1989年はCARTに8戦と全日本F3000に参戦。それぞれ最高位は8位と6位だった。1990年より再び国際F3000に参戦し、最高位4位を記録。シリーズでは18位となった。1991年は国際F3000に開幕戦のみ出走し、13位で完走。またF1チームのAGSと、第3戦サンマリノGPより契約、ステファン・ヨハンソンに代わりNo.18のマシンを駆ることになった。しかし、第8戦イギリスGPまで6戦連続予選落ちを喫し、更にチームが予備予選組に回された第9戦ドイツGP以降は、6戦連続で予備予選落ちに終わっている。また第14戦スペインGPをもってチームが撤退し、終盤の2戦は参戦出来なかった。結果、バルバッツァは1度も決勝を走ることなく、一旦F1から姿を消すこととなった。チームメイトとの予選成績は、ガブリエル・タルキーニに4勝9敗、オリビエ・グルイヤールに1勝0敗だった。F1チームと契約出来なかった1992年は、CARTに3戦参戦。12位入賞を1度記録した。1993年はミナルディと契約し、再びF1に参戦。開幕戦の南アフリカGPにて予選を24位で通過し、初めて決勝を走るが、鈴木亜久里に接触しリタイヤ。この際、亜久里が激しい怒りを見せる一幕もあった。また、続く第2戦ブラジルGPでも、スタートでマーティン・ブランドルと接触し、0周リタイヤとなっている。しかし第3戦ヨーロッパGPでは、完走11台のサバイバルレースの中6位に入り、初ポイントを獲得(このレースでは、チームメイトのクリスチャン・フィッティパルディの前でフィニッシュしている)。続く第4戦サンマリノGPでも、完走9台の中を生き残って6位に入り、連続入賞となった。だがその後の4戦は、第6戦モナコGPでは11位で完走したものの、残る3戦はリタイヤに終わった。更に、スポンサーマネーの関係から、第8戦フランスGPをもってチームを解雇され、バルバッツァはそのままF1から退場することとなった。この年、予選では1度もフィッティパルディの前に出ることはなかった(0勝8敗)。F1から姿を消した後、1994年よりIMSAにフェラーリで参戦した。それに並行しサーキット用の衝撃吸収バリアの開発も行っていた。1995年もIMSAに参戦していたが、4月30日のアトランタでのレース中、前を行く2台のポルシェがスピンした際、それを避けようとしてバランスを崩しコースを塞ぐ形でストップ。そして、その側面にジェレミー・デールが時速160Kmで激突、バルバッツァのマシンは2つに千切れた。バルバッツァは、頭部を負傷し手足を骨折、また肺が潰れるという重傷を負い、意識不明の重体に陥った。その後、奇跡的に一命を取りとめ治療を行うが、1年後の1996年に引退を表明。現在ではカート屋を経営している。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。