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赤松小三郎

赤松 小三郎(あかまつ こさぶろう)は、幕末期の兵学者・政治思想家。号は宇宙堂。慶応2年(1866年)より、京都に私塾を開き、英国式兵学を教える。門下生には、薩摩・肥後・会津・越前・大垣などの各藩士から新選組の隊士までが含まれており、呉越同舟状態であった。ついで薩摩藩から兵学教授として招聘され、京都の薩摩藩邸において中村半次郎・村田新八・篠原国幹・野津鎮雄・野津道貫・黒木為楨・東郷平八郎・樺山資紀・上村彦之丞ら約800人に英国式兵学を教え、藩士たちの練兵も行った。薩摩藩の兵制を蘭式から英式へと改変するのに指導的役割を果たした。また会津藩士・山本覚馬より会津藩洋学校の顧問就任を依頼され、友人の西周と共に会津藩洋学校の顧問を務めた。『英国歩兵練法』(1862年版英国式歩兵操典"Field Exercises & Evolutions of Infantry")の翻訳者で、一度目は金沢藩士の浅津富之助(後の南郷茂光)と分担翻訳し、下曾弥版として出版した。初版本には誤訳もあったため、薩摩藩から依頼を受け、1864年の改定版原本に基づいて、慶応3年5月に改めて『重訂英国歩兵練法』(七編九冊)として出版した。この重訂版(薩摩藩版)は巷に流布しないよう、薩摩藩軍局の厳重な管理下に置かれた。島津久光は、訳本の完成を大いに喜び、赤松に当時の世界でも最新式の騎兵銃を贈ってねぎらった。慶応3年(1867年)5月17日には前福井藩主・松平春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」という建白書を提出した。また同じく5月に同様の建白書を薩摩藩の島津久光にも提出している。この建白書の中で赤松は、定数30人の上局と定数130人の下局からなる二院制の議会(赤松の訳語では「議政局」)政治を提唱した。上局は貴族院に相当し、その議員は、朝廷と幕府と諸藩の融和の象徴として、公卿と諸侯と旗本より選出される。下局は衆議院に相当し、その議員は、各藩を基礎とした選挙区から「門閥貴賎に拘らず道理を明弁し私なく且人望の帰する人」を、入札(選挙)によって公平に選ぶべしとされた。これは、身分にとらわれない民主的な普通選挙による議会政治を提言した文書として、日本最初のものである。「国事は総て此両局にて決議」とされ、議会は国の最高議決機関と位置付けられている。建白書の中では、内閣総理大臣(赤松の訳語では「大閣老」)以下6人の大臣を議会が選出するという議員内閣制度も提言されている。また、議会の決議事項に対しては、天皇ですら拒否権を行使できないとされた。他の項目として、主要都市に大学を設置し全国民への教育機会を提供すること、人民平等の原則に基づき農民に重すぎる税負担を軽減、全ての職種に公平な税率を課すこと、金貨・銀貨を国際的なレートに従って鋳造し直し、物品の製造にあわせ通貨供給量の拡大を計ること、陸軍と海軍を拡充し諸民からも軍人を養成して士族の割合を徐々に減らすこと、戦時には国中の男女を徴兵可能にすること、西洋から顧問を迎え入れ各地に諸物製造所を設け産業を振興すること、肉食を奨励し日本人の体格を改善すること、家畜も品種改良すること、などが建白された。薩摩藩からは国元に招聘されたものの、薩摩藩の武力討幕計画を知って拒否した。内戦の危機を回避しようと、慶応3年8月まで「幕薩一和」を求めて、薩摩の西郷隆盛や小松清廉、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していた様子が兄宛の書簡からうかがえる。出身地の上田藩より度々召還命令を受けたが拒否をし続けたものの、慶応3年(1867年)9月に呼び戻されることになった。その帰国の直前、京都・東洞院通りで薩摩藩士で門下生であった中村半次郎と田代五郎左衛門に暗殺された。中村半次郎はその日記で「幕奸」(幕府のスパイ)だから斬ったと記述している。赤松が薩摩の軍事機密を知りすぎていたこと、薩摩の武力討幕路線に反対の立場で、議会政治の導入により幕府と朝廷・薩摩の対立を融和させようと動いていたことが暗殺の原因になったものと思われる。赤松の墓は金戒光明寺にあり、その墓誌には「薩摩受業門生謹識」として師匠を称える言葉と死を悼む言葉が書かれている。遭難の地には記念碑が建てられている。故郷上田の月窓寺には遺髪墓がある。暗殺の実行犯が確定されたのは、昭和47年(1972年)に中村半次郎(桐野利秋)の『京在日記』の散逸部分が発見され、中村本人が小三郎暗殺を日記に克明に綴っていたことが判明したためである。しかし、中村に指令した黒幕がいたのかいないのか、いたとすれば誰なのかに関しては未解明のままである。大正8年(1919年)には旧薩摩藩士の有馬藤太が、中村半次郎が赤松を斬ったと口述し、その段階で実行犯はほぼ明らかになった。有馬は、自分も暗殺現場に居合わせたと語り、暗殺は中村独自の判断で、その事実は現場にいた4人しか知らぬと述べていた。しかし赤松が暗殺された慶応3年9月3日に有馬はまだ鹿児島にいたというアリバイがあり、現場に自分もいたという証言は虚偽であろう。上田出身で文部省の維新史料編纂課にいた松尾茂が、事実関係を究明しようと大正14年(1925年)、臨終前の有馬藤太を訪問してインタビューを試みたところ、有馬は「4人しか知らぬ」という前言を覆し、「大久保(利通)、西郷(隆盛)等が『赤松信州へ生還せしむるべからず。』として桐野に密命を下したる」と回答した。  短編映画「なまくらNAMAKURA京在日記秘録」(2015年)有馬藤太『維新史の片鱗』(日本警察新聞社)と薩摩藩士中村半次郎「京在日記」をベースに赤松小三郎暗殺に関わる剣士たちの闘いを描いた創作時代劇。本作品の劇中には赤松小三郎は直接登場せず、赤松私塾の門下生である大垣藩士可兒幾太郎が赤松小三郎について語っている。原作「なまくらNAMAKURA京在日記秘録」(2014年坂口平著)では赤松小三郎も登場している。初公開は2015年1月10日上田映劇で自主上映会として開催された。「TEAMへ」代表坂口平初監督作品となる48分間の自主制作映画。劇中の映像はすべて長野県上田地域で撮影されている。TEAMへは2014年「なまくらNAMAKURA京在日記秘録」制作の為に集まった有志で結成されている。

出典:wikipedia

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