陳元贇(読み:ちんげんひん、ちんげんいん、ちんげんぴん(江戸時代の資料から既に様々に「贇」の字を呼んでいる。)1587年(万暦15年) - 1671年(寛文11年)は、中国明代末の文人。字は義都、号は既白山人など。万暦15年(1587年)、明の虎林に生まれる。明末の国乱を避け、30歳代で日本に渡った。尾張藩主徳川義直に1627年(寛永4年)に拝謁し、以来日本に留まった。尾張藩に仕えつつ、折にふれて京や江戸を往来した。元政上人との深交が伝わる。儒教についての造詣は不明だが、書道・作陶も能くする多才な人物で、一説には拳法を日本に伝えたともいわれる。名古屋城下九十軒町(現在の東区泉三丁目の一部)の自邸にて歿し、墓は現在、名古屋市の平和公園にある。江戸時代初期は明末期に当たり、1659年に亡命した朱舜水なども海を越えて日本にやって来ており、彼もその一人であった。自身に醸成された重層的な技芸の数々を多くの文人らとの交流によって披露・伝承した。高橋は、福野正勝の残した良移心当流柔術の伝書に注目した。福野は、陳より伝授されたとされる以前の1623年(元和9年)と陳より伝授されたとされる以後の1636年(寛永13年)に同一内容の伝書を発行している。つまり、元和8年と寛永10年の間に何者かから技術的な影響を受けたことが全くうかがえない。また、福野が開いた良移心当流は(そこから分かれた直心流も)、甲冑を着用した状態の格闘術である鎧組討が中心の流派である。日常の服装での格闘技術が中心の中国武術との技術的共通点が非常に薄い。高橋は以上の点により、陳元贇は「日本柔術の始祖であるという伝説の主人公」として以外は、柔術に対し何ら技術的影響を及ぼしていないとした。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。