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三十年式銃剣

三十年式銃剣(さんじゅうねんしきじゅうけん)は、大日本帝国において1890年代に開発・採用された銃剣。当初の制式名称は三十年式歩兵銃銃剣(三十年式歩兵銃々剣)。第二次世界大戦敗戦まで日本軍の主力銃剣として使用された。旧式化した村田銃の後継として三十年式歩兵銃が採用されるのに伴い、同時に採用されたのが三十年式歩兵銃剣である。なお、三十年式歩兵銃の騎兵銃(騎銃)型である三十年式騎銃には着剣装置が無く、銃剣使用は考慮されていない。のちに三十年式歩兵銃の改良小銃として採用された三八式歩兵銃の採用に合わせ、1907年(明治40年)12月に制式名称を三十年式銃剣に改称している(三八式歩兵銃の騎兵銃型たる三八式騎銃は着剣装置を有す)。開発当初は、欧米列強国と比し低い平均身長である日本人兵士が、三十年式歩兵銃に着剣した銃剣で、歩兵にとって重大な脅威となる敵騎兵の腹部を十分に刺突できる長さをもつこととされていた。外観上の特徴は日本刀を模した片刃の刀身(剣身)である。列強諸国がスパイク状、両刃状の刀身を用いたのと比べて文化的差異が現れている。しかしながら、あくまで銃剣は刺突のためのものであり、刃は先端から約190mmまでしか付いていない。なお、左右に血抜き用の溝が彫られている。明治-昭和初期まで、塗装のされていない白刃であったが、1941年(昭和16年)以降は刀身に黒色塗装が施されている(その塗装から兵士により「ゴボウ剣」の愛称・通称を持つ)。総生産数は約840万振。生産は東京砲兵工廠(のち陸軍造兵廠東京工廠ないし東京第一陸軍造兵廠)に始まり、後には陸軍造兵廠小倉工廠(のち小倉陸軍造兵廠)、および陸軍造兵廠名古屋工廠(のち名古屋陸軍造兵)も加わっている。さらに昭和期の支那事変以降は兵器需要の高まりのため、民間委託生産によって豊田自動織機、松下金属、光精機、金城削岩機、理研鋼材、愛三工業などが生産に携わっている。約半世紀にわたり生産されていたため細かいバリエーションが20種類ほど存在し、概ね「前期」「後期」「末期」に大分することができる。特徴は、前期の刀身は白磨き、後期-末期は刀身が夜戦時の反射防止を目的とした黒染めとなる点が挙げられるが、製造所と製造時期により差が有る。なお、鍔(龍尾)が叉銃し易いためにフック状のものが前期、直状は簡略化された後期との説があるが前期・後期共に両形状の鍔が存在するため正しくはない(末期は全て直状となる)。末期では、鞘がゴム製、木製、竹製、皮革製のものがあり、九九式短小銃の粗悪化に並び、日本軍の凋落の象徴とも言われる。その他、刀身に刀剣鋼を用いない刃付けができない教練用銃剣も存在し、学校教練などで使用された。小銃はもとより軽機関銃(九六式軽機関銃・九九式軽機関銃)や機関短銃(一〇〇式機関短銃)にまで着剣可能だった。ただし、軽機に関しては白兵戦の道具としてでは無く、射撃の反動による銃口の跳ね上がりを押さえるための「重り」としての意味合いが強いとする説もあるが、現在残されている資料で確認することはできない(九六式軽機関銃#着剣装置参照)。また、機関短銃に関しては、戦後に採用されたイスラエルのUZIや、イギリスのスターリングといった軍用短機関銃にも着剣装置を持つモデルが存在するように、短機関銃が効力を十分に発揮する接近戦や白兵戦において一定の銃剣需要はあったため、決して日本軍独自の発想ではない。後の第二次世界大戦時には、空挺部隊(落下傘部隊)たる挺進部隊用に、三十年式銃剣の全長(刃長)を約200mm短くし取りまわしを良くした二式銃剣(全長323mm・刃長195mm)が採用され、挺進兵用の二式小銃や一〇〇式機関短銃に用いられている。なお、戦後に創設された事実上の帝国陸軍の後身である、陸上自衛隊にて採用された64式7.62mm小銃の属品たる64式銃剣は、その開発段階において三十年式銃剣の影響を多分に受けており、全長410mm・刃長290mmと長尺なものとなっている。

出典:wikipedia

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