朝鮮人民共和国(ちょうせんじんみんきょうわこく)は、大日本帝国が大東亜戦争に関するポツダム宣言の受諾を宣言(玉音放送)した後、朝鮮総督府から朝鮮の行政権を移譲されて1945年9月6日から短期間存在した臨時政府である。国家の承認、政府承認をした国や外交関係を樹立した国もないため、大韓民国臨時政府と同様に国際法上の「国家」とは言えない。だが、朝鮮人民共和国の地方組織である人民委員会は、ソ連軍が占領した北朝鮮(北緯38度線以北)地域で存続し続け、後の北朝鮮人民委員会、更には朝鮮民主主義人民共和国の礎となっていった。日本のポツダム宣言受諾後、朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作は日本統治終了以後の朝鮮半島が無政府状態に陥るのを恐れ、民衆保護のため朝鮮人による政府樹立を、人望のあった政治活動家呂運亨に要請した。呂は8月15日、ただちに朝鮮建国準備委員会(建準)を設置し、朝鮮総督府から行政権の事実上の移譲を受けることになり、翌月の9月6日には建国宣言を行った。発表された閣僚名簿には金日成と李承晩が含まれていた。9月8日、朝鮮半島に上陸した連合国軍(実質的にアメリカ軍)は臨時政府を認知せず、アメリカ軍政庁を設置した。その後、臨時政府はアメリカとソ連の冷戦により短期間で瓦解、連合国側の当初のプランであった信託統治についても冷戦の影響で決裂する。朝鮮の世論は信託統治への賛否で二分され、信託統治に反対する右派は「非常国民会議」を結成、一方で朝鮮人民共和国のメンバーは1946年2月に民主主義民族戦線に発展的に解消した。これを契機に朝鮮は分断へと突き進むことになった。1947年には呂運亨は右翼に暗殺され、1948年に親米的な李承晩を首班とした大韓民国が、アメリカの承認のもとで朝鮮半島南部に建国されることになる。この「朝鮮人民共和国」は、実態を超えて、統一朝鮮を願う者にとっては失われた理想を示す言葉として幻の共和国とも呼ばれ、理想化して語られることがある。実際、この時期の朝鮮には路線の違いはあれ、長い日本による統治から解放され自由で民主的な社会(国家)を作ろうとする熱気に包まれていた。朝鮮の民族運動に対するアメリカ軍とソ連軍(赤軍)の無理解も、朝鮮の分断の固定化と長期化に繋がったとされる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。