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柳川平助

柳川 平助(やながわ へいすけ、1879年10月2日 - 1945年1月22日)は、長崎県出身の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。司法大臣、国務大臣。皇道派の重鎮。1879年に長崎県西彼杵郡村松村(2007年現在・長崎市村松町、旧西彼杵郡琴海町村松郷大石)に生まれる。幼少時に佐賀県の柳川家に養子に出る。実兄・楠木志能夫(くすきしのぶ、1953年死去)は、長崎県大村市の開業医(眼科)。尋常西海小学校から旧制・県立長崎中学校を経て、1900年に陸軍士官学校(12期)を卒業。中尉で日露戦争に従軍。1912年に陸軍大学校(24期)を優等で卒業。陸軍騎兵実施学校教官、陸軍大学校教官を経て、1918年に北京陸軍大学校に教官として着任。国際連盟派遣、欧州駐在を経て荒木貞夫陸軍大臣の下で1932年に陸軍次官、真崎甚三郎らと皇道派の重鎮となる。1934年に第一師団長となるが、荒木・真崎の力が衰えた1935年に台湾軍司令官に転任。1936年の二・二六事件の後に予備役編入。1937年に第二次上海事変で中国国民党軍を押し切れない上海派遣軍支援のために、第10軍が編成され、再召集された柳川が司令官に任命されて現役に復帰した。杭州湾上陸作戦を成功させ、中国軍の退路を脅かし、上海攻略に貢献する。更に参謀本部や上海派遣軍の意向を無視し独断で中国軍を追撃、南京攻略戦へと発展させる。1938年3月に中支那方面軍の再編成に伴い召集解除、帰還。
1938年12月に設立された興亜院の初代総務長官。1940年に第2次近衛内閣で、司法大臣を務め、第3次近衛内閣では国務大臣に転じた。1945年病死。二・二六事件から70年を経過した2005年2月、長崎県大村市で、柳川平助が書いた自筆の書簡集が発見された。眼科医で、東彼杵郡医師会会長を務めたこともある実兄・楠木志能夫(くすきしのぶ、1953年死去)に、1927年から1944年の間に出されたもの。二・二六事件前において、政府や軍などに対して抱いていた不満、不信感がつづられており、貴重な資料となっている。

出典:wikipedia

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