ビスマーク・シー (USS Bismarck Sea, AVG/ACV/CVE-95) は、アメリカ海軍の護衛空母。カサブランカ級航空母艦の41番艦。艦名はニューギニア北部のビスマルク海に因む。アリクラ・ベイ (USS Alikula Bay) は1944年4月17日にワシントン州バンクーバーのカイザー造船所で、夫人(ウォールグレン上院議員の妻)によって進水し、1944年5月16日にビスマーク・シーに改名、5月20日に海軍に移管し、同日J・L・プラット艦長の指揮下就役する。なお、最初の艦名のアリクラ・ベイは、アラスカ州南東部のアラスカ湾のコロネーション島にあるアリクラ湾にちなむ。以前に建造中のカサブランカ級護衛空母2番艦に名付けられたが、進水前にコーラル・シーに改称され、後にアンツィオに改称されている。1944年7月から8月にかけて、ビスマーク・シーはカリフォルニア州サンディエゴとマーシャル諸島の間で船団護衛を行う。サンディエゴでの修理および追加の訓練の後にウルシー環礁に向かい、第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)に合流する。1944年11月12日から11月23日までレイテ島沖での作戦活動に従事し、その後1945年1月9日から1月18日にかけてリンガエン湾上陸作戦に参加した。2月16日、ビスマーク・シー以下第52任務部隊(少将)の護衛空母群は硫黄島沖に到着し、硫黄島の戦いの支援を開始した。この日は朝から天候が優れなかったものの、90機の艦載機が硫黄島攻撃を行った。2月17日と18日にも出撃を行い、2月19日の上陸作戦に向けての露払いを行った。この頃、第三航空艦隊(寺岡謹平中将)はアメリカ艦隊への反撃作戦をいくつか講じていたが、彼我の戦力差などを考慮して「少数機の部隊を小刻みに発進させて奇襲を行う」という戦法に決定した。これを受け、第六〇一海軍航空隊は彗星12機、天山8機、零戦12機を攻撃隊として用意して「第二御楯特別攻撃隊」と命名し、八丈島を中継して攻撃することとなった。第二御楯特攻隊2月20日に最初の出撃を行ったが悪天候で引き返し、天候が持ち直した翌2月21日に再び出撃。八丈島に到着後、部隊は5つに小分けされ、15分間隔で硫黄島近海に向かって出撃していった。ビスマーク・シーはこの時硫黄島の東方海上にあり、第二御楯特攻隊の攻撃で大破した空母サラトガ ("USS Saratoga, CV-3") の航空機を収容した他、ウェーク・アイランド ("USS Wake Island, CVE-65") とナトマ・ベイ ("USS Natoma Bay, CVE-62") の航空機も収容して、艦は航空機であふれかえっていた。ガソリンを抜く暇も無く、航空機は片っ端から格納庫に押し込められていった。2月21日の日没は18時25分と記録された。その直後、ビスマーク・シーの見張りは水平線上に接近してくる3つの目標を発見。ビスマーク・シーはルンガ・ポイント ("USS Lunga Point, CVE-94") に向かっていた3つの目標に対して対空砲火を撃ち、1機を撃墜した。一時はサラトガの航空機とも思われた残る2機の特攻機がビスマーク・シーに急速に接近してきたが、一部の機関砲および機銃は射程内にルンガ・ポイントが入ってきたため撃てなかった。やがて、その航空機は右舷後部の40ミリ機関砲座の下に突入し、ハンガーデッキと弾薬庫を破壊。格納してあった航空魚雷4本を叩き落して爆発を起こさせた。その火災は押さえることができたものの、間もなく別の特攻機、あるいは通常の攻撃機から投下された爆弾が後部エレベーターシャフトに命中して海水消火システムを破壊。また、ガソリンを抜き終わっていない航空機の中で爆発したため、格納庫内の航空機、燃料、弾薬に次々と引火して火山の様となった。ビスマーク・シーは消火隊が焼死した他、後部にいた乗員が爆発で海に放り出された。ビスマーク・シーは、もはやそれ以上のダメージ・コントロールが不能となった。最初の特攻機が命中してからわずか15分後、艦の放棄が命じられた。総員退艦の命令は口伝で行われた。ビスマーク・シーは爆発を繰り返して右舷側に倒れ、20時8分に犠牲者318名とともに艦尾から沈没していった。護衛駆逐艦 ("USS Edmonds, DE-406") が救助作業を行い、夜間の荒海の中プラット艦長を含む378名を救出。生存者は攻撃輸送艦 ("USS Dickens, APA-161") と ("USS Highlands, APA-119") に移送され、エドモンズの乗組員30名が傷つき疲れ果てた救助者達に同行した。ビスマーク・シーは第二次世界大戦の戦功での3つの従軍星章を受章した。
出典:wikipedia
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