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少年倶楽部

少年倶楽部(せうねんくらぶ、しょうねんくらぶ)は、1914年(大正3年)に大日本雄弁会(現・講談社)が創刊し、敗戦後の1946年に少年クラブと改名して1962年(昭和37年)まで、611冊刊行された月刊少年雑誌。なお、これ以外の『少年倶楽部』には、『北隆館』が1897年に、『少年倶楽部社』が1908年に、『大文社』が1911年に創刊して、何れも短期に終わった三誌があった。小学校後半から中学校前半の少年を対象として、1914年11月に創刊した。先発には、博文館の『少年世界』(1895年創刊)、時事新報社の『少年』(1903年創刊)、実業之日本社の『日本少年』(1906年創刊)などがあり、『日本少年』が売れていた。創刊期の少年倶楽部の発行部数約2万に対し、日本少年は20万部に届いていた。1921年、加藤謙一が編集長となる(就任は10月号から)。1925年、看板の挿絵画家高畠華宵を失い、部数が4割減少する危機に見舞われたが、講談社社長野間清治の「雑誌は活字で売るものだから、よい読み物を書く作家を捜せ」というアドバイスにより、佐藤紅緑を皮切りに吉川英治・高垣眸・大佛次郎ら一流大衆作家の少年向け長編小説を揃えることで多くの読者の獲得に成功、大きく部数を伸ばした。普通号は菊判で、その頃は320ページ前後に成長していた。正月や夏の臨時増刊には、四六倍判やB5判もあった。1924年からの十年余、斎藤五百枝が、表紙を描いた。1933年、須藤憲三が編集長になってからも一本調子に、1936年の75万部まで伸びてダントツになったのには、漫画と組み立て付録の人気もあった。田河水泡の『のらくろ』を1931年から、島田啓三の『冒険ダン吉』を1933年から、中島菊夫の『日の丸旗之助』を1935年から載せた。1932年からは、巻頭に『漫画愉快文庫』の色刷り32ページを据えた。付録は、初期は双六・別冊・絵図・絵巻などだったが、1931年からペーパークラフトの素材の彩色厚紙を付け始め、ドルニエ Do X・名古屋城・戦艦三笠・エンパイヤステートビル・万里の長城など、鋏も糊も使わない差し込み式なので、工作が楽だった。エンパイヤステートビルは高さ1.5mだった。これらの設計をした中村星果は、のちの1956年、日本児童文芸家協会の児童文化功労者に選ばれた。1937年、日中戦争が始まった。軍事関係の記事は、陸軍省・海軍省が事前に検閲した。翌年、商工省が出版社に用紙の節約を求めて付録は減り、1941年1月で終わった。用紙の割り当てを受けるには、時局迎合の記事を載せねばならなかった。以前の400ページが1943年新年号は208ページに、1945年には無色の32ページにまで痩せ、そして8冊しか出せなかった。発行部数も20万部を切った。終戦直後の1945年8・9月合併号には、終戦の詔書が振り仮名つきで掲載された。1945年10月号では、表紙のみながら多色刷りによる発行を再開。翌年の1946年4月、誌名を『少年クラブ』と変え、戦争迎合記事を書かされた責任を取る形で編集部員が交替し、56ページの薄さから再出発して、1953年には346ページにまで復活した。高垣眸・佐々木邦・大佛次郎・南洋一郎・江戸川乱歩らが引き続き書き、棟田博・北條誠 ・富沢有為男・山川惣治・手塚治虫・馬場のぼるらが登場したが、戦前の看板の『熱血痛快』長編はもう迎えられなかった。1949年頃からプロ野球、1955年頃からプロレス、1956年頃から漫画と、誌面が世相を追って世を挙げた漫画ブームに飲み込まれるように、講談社の週刊少年マガジンと合併する体裁で、1962年12月に49年の歴史を閉じた。以下の行末の『→』印の後ろは、復刻版を示し、その "名作1"、"文庫” などは、復刻の項の、各行末の符号に対応する。

出典:wikipedia

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